漫画『本なら売るほど』1〜3巻
児島 青/著 KADOKAWA 2025年,2026年
1、2巻は電子書籍で購入していたが、やはり紙の本で持っていたいと思い、3巻の発売を機会に全巻買い直した。読むだけなら電子で構わないのだが、確認したい事がある時にはページをめくる方が探しやすいし、本をならべて見比べることも出来る。読まなくてもただ単にぱらぱらめくるだけでも楽しいのだ。
最新の3巻で十月堂の店舗の大家さんが登場。十月堂が開店した経緯が描かれて、1巻の岡書房のエピソードと繋がった。常連さん同士の思いがけないつながりや交流も少しずつ生まれ、レギュラーメンバーが増えていくのも楽しい。まさか美大の彼がまた出てくるとは思わなかった。着物の彼女の着こなしも気になるし、「しゃれこうべの八掛」の粋なおばあさんにまた会いたい。
川口のリリアが2024年3月から2026年3月まで大規模改修のため休館していた。ようやく7月にグランドオープンとなり、リオープン記念の公演がいろいろ企画されている。
その中の一つが「リリア音楽ホールで聴く日本の歌」で、2015年から始まり、わたしは2018年、2019年と鑑賞した。それからも毎年あるなら絶対行こうと思っていたけれど、コロナ禍以降は行くのを控えていた。今回リリアのリオープン記念でこのコンサートも新たにSeason2となり、再開された。昨日会員対象のチケット先行販売があり、初めてネットで購入した。以前は電話で申し込んでいたが、せっかくネット登録したので使ってみたのだが、iPadからだとちょっと使いづらかった。画面が大きくならないので座席指定が難しかった。これからは娘のPCを借りた方がいいかもしれない。
コンサートは7月でまだ先だけど今から楽しみでならない。今回メンバーの1人の坂下忠弘(バリトン)さんが、村松稔之さん(カウンターテナー)に代わっている。坂下さんの声は艶があって好きだったけど、カウンターテナーの声を生で聴くのは初めてなので、それは楽しみ。メンバーの加耒徹さんがバリトン、田代万里生さんがテノールなので、3人それぞれ音域が違うのも楽しみだ。
映画「ぼくの名前はラワン」
エドワード・ラブレース/監督・脚本 2022年 イギリス クルド語・英語・イギリス手話
4/10 OttOにて鑑賞
映像はとてもきれいだったのだが、カメラワークがちょっとドラマのようで、今まで見てきたドキュメンタリーと違って戸惑ってしまった。
「心に傷を負ったろう者の少年が、新天地での出会いと学びによって自分らしさを獲得していく」というのはわかったのだが、その戸惑いのせいで映画にあまり没頭出来なかった。実は寝不足気味だったので、途中幾度か寝落ちしそうになってしまった。ごめんなさい。
映画鑑賞後にパンフレットの「本作は少年の自由な頭の中と連動するダイナミックで抒情的な映像と音楽で描写する」とあるのを読んで、ようやく納得できた。そうかラワンの事以外の説明があまり詳しくなかったのはそういうことで、ラワン主体の映像だったからか。映像は確かにすごかったが、音楽はちょっと過剰に感じられた。
ろう者であるラワンが自分を表現できる手段を得た時の喜びは、どれほどだったろうか。それこそ世界が広がり希望が見えたことだろう。彼の表情がそれを物語っている。イラクにいた時は自分をポンコツと思っていたという彼が、自信を持ち友人も出来、今は生き生きと過ごしている。彼の笑顔が曇ることのないようにと願う。
ろう者を取り巻く環境は、ラワンに限らず日本でも厳しいものがある。「みんな、おしゃべり!」でも感じた事だった。
そして今回もろう者の方が結構見に来ていた。こうやってごく普通にろう者と聴者が同席できる環境っていいな。
この映画の日本語字幕及びバリアフリー字幕監修に那須映里さんの名前があった。NHK「みんなの手話」でもおなじみで、この方が活躍しているのがとても嬉しい。
「みんな、おしゃべり!」出演の那須英彰さん、以前「みんなの手話」に出演していた那須善子さんがご両親。わたしは那須善子さんのきれいな手話にいつも見惚れていた。
映画「はだしのゲンはまだ怒っている」
込山正徳/企画・監督・編集 2025年
4/8 OttOにて鑑賞
原作者中沢啓治さんの妻をはじめ、講談「はだしのゲン」を演じ続ける講談師、原爆当時の記憶を語る被爆された方たち、「はだしのゲン」の英訳版を作った人たち、その他さまざまな人の証言を通して、「はだしのゲン」の誕生から現在を見つめるドキュメンタリー。
近年図書館や教科書から「はだしのゲン」が消えているという。それは広島でさえそうなのだということに驚く。その理由はいろいろあるだろうが、その一つに作品中でゲンがアメリカに向かって怒りをぶつけている描写が、今の政府の気にいらないのだろうという指摘があった。ああ、またそれなのか、と情けなく思う。
アメリカでは、原爆投下が戦争を終わらせたという認識が根強くある。原爆の実態が正しく伝わっていないのだ。だからこそ英訳版を作った人たちがいることに感謝したい。
それと、教育上望ましくないという理由。わたしは残酷な場面のせいかと思ったら、なんでも鯉を盗む場面があって、盗みはいけない事だから、という。なんというこじ付けだろうか。
また歴史認識に誤りがあるという人の意見もあった。その人の持論は「あの戦争は日本が追いつめられやむなく始めたもの」という。そういう考えがあることは知っている。わたしの父もそう言っていた。しかし軍部が暴走した事は事実だし、他の国を攻撃して占領して勝手に国を作った事が正しいとは言えないだろう。
こういう近年の風潮をみると、国に都合の悪いことには蓋をして、排斥しようとする力が働いていることを感じる。だからゲンは「まだ怒っている」のだ。わたしたちはこの「怒り」を決して風化させてはならないと思う。
終盤に、原爆を受け自身は助かったが幼い弟を亡くした方が、腹話術で原爆を語る公演が描かれていた。弟の死の場面は悲惨で辛かったが、この方は最後に日本の加害責任についてもきちんと述べていて感動した。この方はもう90歳を越えていられた。被爆された証言者の方たちも皆高齢で、このインタビュー後に亡くなられた方もいた。この方たちの証言を無駄にしてはならないと思う。ここでも「医の倫理と戦争」と同じく勇気をもらえた。
娘がa1を食べて「一切れ目は甘みもすっぱさも足りなかったけど、2切れめはすっぱいかな?4切れ目はおいしい」とメールしてきた。(わたしは外出していた)
a1は小さいので(今までのニュージーランドりんごの中でも1番小ぶりだった)、1人1個ずつ、それぞれ違うりんごを食べたから?でも普通そんなに違いあるかな?
帰宅後、別のりんごを半分ずつ食べてみた。
おお!ちゃんとすっぱい!娘も「さっき食べたのよりおいしい!」と感動していた。りんごによって味がこんなに違うのか?4つあるりんご全部味が違うとしたら、あと1個残ってるけどそちらはどうだろう。
あの店はいつまでこのりんごを置いていてくれるのか、他の種類も出てくるのか、本命のジャズはいつ出てくるのか、これからしばらくわくわくしながらりんご売り場を見ていこう。
昨日スーパーでニュージーランドのりんごを見かけた。ラベルには「a1」とある。「えーわん」と読むのかな?昨年は新しく「ポピー」に出会ったし、こうして毎年新しい品種にお目にかかれるのか?
調べてみると、ニュージーランドの早生りんごらしい。なるほど今年は早いなと思っていたら、そういうことか。昨年のポピーは5月中旬だったし、約1ヶ月早い。
食べてみると硬くて甘い。硬いのはおおいに結構なのだが、うーん、甘いだけで酸っぱさがない。いや、甘くて美味しいことは美味しいのだが、もう少し酸っぱさが欲しい。わたしが紅玉やニュージーランドのりんごが好きなのはそこなので。硬くて酸っぱいりんごが食べたい。
紅玉は先日久しぶりに八百屋で見かけて、喜び勇んで購入。ちょっと古いのか少し柔らかくなっていたが、味は久しぶりの紅玉で美味しかった。
今月の絵手紙のモチーフは春野菜ということで、アスパラガスと菜の花を描いた。
いつもの画仙紙ではなく、コーヒーフィルターに描いたので、ちょっと変わった趣きでこれもまたよし。
その後2つとも茹でて食べた。おいしかった。
映画「おくびょう鳥が歌うほうへ」
ノラ・フィングシャイト/監督 2024年 イギリス/ドイツ
4/6 OttOにて鑑賞
何と表現すればいいのだろう。オークニー諸島の荒々しい自然に晒され巻き込まれ吹き飛ばされ、主人公ロナを演じるシーシャ・ローナンをひたすら見つめ続けた時間だった。
シアーシャがアルコール依存症の女性を演じる、という情報だけで見たので、いろいろ戸惑った。
時系列が前後するので見ている間中混乱して非常に疲れた。鑑賞後自分なりに時系列を再構築して、なんとか何が起きているか理解できたような気がする。これが出来るのも、それだけ各場面の映像が、強烈な印象を残しているからだろう。何でこんなややこしい構成なのかと思ったけど、これはずっとロナ自身の視点から描かれていて、そのせいでロナの混乱状態が、そのまま自分のことのように感じられた。だから疲れた。
シアーシャの繊細な表情、突発的に破壊的に暴れ回る行動、とにかく目が離せなくて、痛々しくてたまらなかった。
ラスト近く荒れる波を指揮するかのようなシアーシャの動きが美しく、そこに過去のさまざまな映像が重なり、それら全てを彼女が自分の内に取り込み自在に扱っているかのように見えた。彼女が、父親が風をコントロールしていると思っていた、と語る場面があったけど、この場面の彼女がまさにそのようであった。
ところどころ神話的イメージもあり、言葉でなく映像が物語っているようだった。
映画「長安のライチ」
ダーポン(大鵬)/監督・脚本・主演 2025年 中国
4/3 OttOにて鑑賞
わくわく胸熱な前半と打って変わって、非情な展開になる後半が辛すぎた。皇帝も宰相も宦官も官僚たちも、お前たちみんなみんな滅んでしまえ!と叫びたくなる。
唐の時代の中国、「南方の嶺南の生のライチを長安に届ける」という無理難題を押し付けられた下級役人の李善徳。ただでさえ痛みやすい生のライチを、何千キロの道のりを新鮮なまま運ばなくてはならない、到底不可能な任務。善徳はていのいい生贄に選ばれたのだ。
名もない力もない者が、誠実さと熱意と知恵を持って、その人柄で惹きつけた仲間たちと力を合わせて難題を克服していく。運ぶ時間の短縮とライチの鮮度を保つ方法が、試行錯誤しながら次第に形になっていく様子には胸が熱くなる。このまま成功してお偉方の鼻をあかしてやれ!と思ったら…。
懸命な努力で何とかあと少しというところまでこぎつけたのに、官の介入で様相が一変する。民間ではこれが限度なので朝廷の力を借りようとした善徳を責めることはできない。
それまでハナもひっかけなかったのに、上手くいきそうになると途端に介入してきて手柄を横取りする。いつの世でも上層部のやりそうなことだ。
辛い展開の後半で唯一良かったのは、迎えの船がきたこと。蘇諒、いい奴だな。最初胡散臭いと思ってて悪かったよ。
ただ一つ残ったライチの壺を抱えて、夜の長安を馬で駆け抜ける善徳の姿には涙が出る。そして善徳からこぼれ落ちる木綿花の赤い花びら。それは妻に約束した約束の花であるが、それよりもこの任務を果たすために散っていった数多の人々の血のように感じられた。彼らは命令に従い、善徳を信じて最後までついて来てくれたのに。
何のための任務か、何のための邪魔だてか。すべて宮廷の権力闘争のせい。そんなもののために命をかけたのか、と虚しくなる。だから善徳が思いのたけを宰相にぶつけたのは気持ちよかった。言ったれ言ったれ!
善徳が嶺南に追放され、家族でライチを植えるラストシーンは美しい。できればあの墓標には全員の名前を書いて欲しかったけど。
エンドロールのバックの絵巻物がとてもよかった。
映画「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち
寺田和弘/監督
3/23 OttOにて鑑賞
予告編の時から辛かった。裁判の結果は知っていたが断片的なものでしかなく、この裁判の経緯をしっかり見つめたいと思った。
「あの日、何があったのか」「事実を知りたい」という親御さんたちの強い思いは、人ごとではない。
映像の大部分は亡くなった児童の遺族の方が撮影したものなので、初めて見る映像が多く、特に第1回の学校説明会の映像が衝撃的だった。教師の中で唯一の生存者だった方の姿があったのだ。説明する先生もそれを聞く遺族もどちらの姿も辛かった。この時を含めてその後何回も行われた説明会での、学校と教育委員会の態度に不信感を募らせる遺族の気持ちは、もっともだと思った。都合の悪いことを隠蔽し責任逃れしようとしているように見えた。本来なら学校と家庭が協力して子どもを守るもののはず。それが遺族と一緒に検証しようという姿勢が見えなかった。遺族が最終的に裁判を起こすまでになったのも無理はない。
裁判を起こすことで批判も中傷も脅迫もあったという。「誰も裁判なんか起こしたくない」と遺族は言う。真実を求める裁判だけど、裁判を起こすということは、わが子の命の値段をつけるという非情な事実にも直面しなければならない。どんなに辛い決断だっただろうか。それに耐えて裁判を闘い抜いた遺族の方々の強い思い、その一言一言が胸に刺さる。
とても辛かったが、やはり見てよかった。