うっすら不調

金曜土曜と休んだのでだいぶ回復したと思っていたけど、日曜日に買い物に行った頃からまた具合悪くなって寝ていた。月曜日は朝からずっと寝込んでいた。寝ても寝ても眠い。でもこれでかなり寝不足解消出来たせいか、昨日はようやく朝すっきり起きられた。
これなら大丈夫とちょっと動き過ぎたのと、調子に乗って食べ過ぎたので、また少し体調悪くなった。少し寝たら良くなったのでほっとしたけど、この微妙な体調不良はなんなのだろうか。これが夏バテというものかもしれない。

今朝も起き抜けは調子良かったけど、朝の一仕事終えて朝食取った後にまたうっすら不調な気配。無理せず休むことにする。
土曜日の外出予定までには何とか復調していたい。
今度はコウモリ

今度はコウモリ

今週始めから娘が体調悪くて寝込んでいて、昨日ようやく回復した。入れ代わりにわたしが体調不良で昨日から寝込んでいた。だいぶ回復したが今日も午前中から寝ていて、午後からぼちぼち動けるようになってきた。

午後2時ごろ、娘が洗濯物を取り込んできてわたしがたたんでいたら、洗濯ピンチに干していた下着に何やら黒い塊が見えた。蛾?蝉?カブトムシ?慌てて下着を娘に渡し、娘は外へ持ち出し、花壇の上でバサっと振った。

落ちた物体を見て娘が最初に発した声は「蛙⁉︎」だった! いやまさか!? 次に「コウモリだ!」と。 へ?コウモリ?! 見に行くと、メランポジュームの上に見えたのはたたまれたハネだけだったけど、これは確かにコウモリだ!動かないので寝ているのか死んでるのか?このままにはしておけないし、つまんでどこかにやろうと娘が家で手袋をはめている間に、いなくなってしまった。飛んで行ったのか、花の中にもぐりこんだのか。夕方水やりしたら驚いて出てくるかな。

→追記 水やったけど出てこなかった。無事本来の寝ぐらに飛んでいったのだろう。しかしこれからは夕方付近を飛ぶコウモリを見るたび、「君かい?」と思い出すんだろうなあ。戻ってこなくていいからね。

コウモリは夕方よく飛んでいるから、ここらへんにいることは知ってたけど、まさか洗濯物にもぐりこんでいるなんて。夕方まで寝ているつもりだったのか?まさか今までも気づかないだけでちょくちょく洗濯物に止まっていたりしたのか?どこかに寝ぐらがあるんだろうとは思っていたけど、まさか我が家の軒下じゃあるまいな? まさかまさかの出来事で眠気も吹き飛んだ。
とりあえずねぐらにされていた下着は捨てて、同じ洗濯ピンチに干していたタオル類はもう一度洗った。


コウモリが落ちたメランポジューム。この隣に蜂の来るトレニアがある。けさはいつもより水やりが遅かったせいか、蜂には出会わなかった。
蜂

我が家の玄関前の自治会の花壇で、先日から朝の水やり時に蜂に遭遇している。
だいたい5時半以降の同じような時間に水やりしているのだが、気づくとトレニアにとまっている。普段はそれほど気にしないのだが、最近同じような時間に同じ場所で見かけるので気になっている。
今日は2匹いた。最初に1匹が飛んできて、後からもう1匹が飛んでくると先に来ていた方が飛んでいって、後からの1匹がちょっとウロウロ花の間を飛んで最後にいつものトレニアにとまった。しばらくトレニアの花に顔を突っ込んでとまっていたが、そのうち飛び立って行った。
この子いつも来る個体かな、そんなにこの花が好きなの?
蜂が居る間は水やり出来ないので、飛んでいくのを待っている。一度はあまりに長く花の中に居るのでそこが寝ぐらなのか?それなら困ったなと思った。でもこの花壇には夕方も水やりするのだが、夕方には居ないのでそれはないか。

蜂の種類はたぶんアシナガバチだと思う。以前やたらと蜂を見かけると思ったら、ベランダの排水口に巣を作られていることに気づいた。ちょうどリフォームの為引越し準備している時だった。そのままにしておこうかと思ったけど、工事の人が刺されても困るだろうから一応追い出しておこうと、蜂用の殺虫剤を撒いてだいぶ駆除した。気づかなかったけど、その時たぶん1匹が家の中に入り込んだんだろう。明け方寝返りを打った途端、ほっぺたと手の甲を蜂に刺されてしまった。最初何が起きたか気づかず、チクっとしたので目が覚めた。電気をつけて掛け布団の上に蜂を発見した時はパニックになった。慌てて殺虫剤を吹きかけた。痛くて腫れてきたのでとりあえず水で冷やして、息子の車で病院へ行って薬をもらってきた。運の悪いことに日曜だったのでかかりつけの医者に行けずに、休日当番の病院で感じの悪い医師にあたってしまい、ろくに診察もされずに帰された。幸いすぐ水洗いして冷やしたおかげで痛みはひいたけど、腫れは結構続いた。

一度刺されたら二度目に刺された時アナフィラキシーショックを起こす危険があるというので、それ以来蜂を見かけるとちょっと怖くて身がすくむ。こちらから攻撃しなければ何もしないとはわかっていても、草取りや水やりの時気づかないで刺激してしまうことがないとは言えない。出来れば会いたくない相手なのだ。
なので最近は朝の水やりの時、今日はいるかな、いないかなと緊張する。時間をずらせば会わずにすむかもしれない。悩ましいこと。


写真のトレニアが蜂のお気に入り。隣にジニアやメランポジュームや色違いのトレニアもあるのに、なぜかこの花にとまる。
久しぶりの蚊

久しぶりの蚊

昨夕水やりしてたら久しぶりに蚊にくわれた。あまりに暑いと蚊も活動しなくなるらしく、昨年も今年も蚊をあまり見かけなかった。油断したわけではないけど、ようやく夕方は少し涼しくなってきたのでやれやれと思っていた矢先だった。人間に心地よい気候は蚊にも良いのだろう。

わたしは蚊に「くわれる」と言うけど、子どもの頃は「かまれる」と言っていた。何の疑問もなくそう言ってたのだが、二十歳過ぎたころある人に「かむ?蚊はかまないでしょう?」と言われて驚いた。あれ?たしかに蚊はかまないよな。それで何となく「くわれる」と言うようになったのだけど、「かまれる」も「くわれる」も実際の蚊の行動ではない。どうも一般的には「刺される」らしい。

webの2018年のウェザーニュースで、言い方の割合が出ていて、「刺された」が59%「食われた」が31%、「かまれた」が10%だった。
あらら「かまれた」って少数派なのね。
でも西日本では「かまれた」「食われた」が拮抗してる。なるほど。わたしは中学2年まで京都に住んでいたから、普通に「かまれる」を使っていたらしい。

では「かまれる」がおかしいと言われて言い方を変えた時、わたしはなぜ「刺される」ではなく「くわれる」にしたのだろう?

別のweb情報では「刺される」が全国で広く使われていて、「食われる」は主に東日本、「かまれる」は主に西日本に浸透しているらしい。なるほど、おかしいと指摘された時は東京に住んでいたので、周囲の人が「食われる」と言っていてそれに合わせたのだろう。
今思うと別に変えなくてもよかったのに、当時はなんか恥ずかしかったのかもしれない。若気の至り。
今はもう自然と「くわれる」と言ってるので、「かまれる」に戻ることはないだろうけど、なんかもったいなかったかも。だって「かまれる」ってちょっと可愛いじゃないですか。その響きに懐かしさと淋しさを感じるのは、やっぱり年ですかねえ。



花壇に今年も生えてきたハゼラン。小さすぎてピントがあわない💦
『海に沈んだ対馬丸 子どもたちの沖縄戦』

『海に沈んだ対馬丸 子どもたちの沖縄戦』

『海に沈んだ対馬丸 子どもたちの沖縄戦』
早乙女 愛・著 岩波ジュニア新書 2008年

映画「満天の星」のパンフレットで、監督の寿大聡と著者の対談が載っていた。この本の取材でインタビューした中島高男さんの映像が、映画でも使われていた。

なぜ学童疎開が行われたのかといういきさつ、乗客たちそれぞれの事情、撃沈、漂流生活、上陸後、という順に対馬丸事件がたどられていく。

そもそもなぜ疎開か。日本本土への攻撃の防波堤となる沖縄に次々兵士が送り込まれ、その食糧確保が主な目的だったという。戦場となる沖縄から安全な場所への移動という面もあっただろうが、高齢者、女性、子どもが対象だったことから、戦力外の人員整理の目的の方が大きかったように思える。

意外だったのは疎開そのものは対馬丸の前に、既に7月中旬に一般疎開者が、学童疎開の第一陣が8月14日に発っていたことだ。てっきり対馬丸が最初の疎開船だと思っていた。そして対馬丸の他に2隻の疎開船、2隻の護衛艦がいたことも。この合計5隻の船団が航行していたのだ。そのうち学童疎開船が対馬丸だった。映画でこのことも言っていたのかも知れないけど、記憶にない。

ああ、だからか、と腑に落ちた。護衛艦がなぜ対馬丸の遭難者を救助しなかったのか。映画では全滅を避ける為(ちょっと身勝手な感じがした)と言っていたが、他の2隻の船を護衛しなければならなかったからなのか。使命を果たしただけだったのか。
他の船に乗っていたランドセルだけが帰ってきた、という話が映画にありどういうことかと思っていたが、このことを知って理解できた。

著者が訪ねて話を聞いた7人の生存者たち。彼らの証言を元にした沈没から漂流生活の描写は凄まじい。映画のインタビュー画像よりももっともっと過酷だった。

救助されたのが漂流中の人もいるが、何日も漂流して無人島に上陸し、沖を通る漁船にようやく救助された人もいた。ここらへんは映画では詳しく分からなかった。漂流中に亡くなった人も多かっただろう。もっと早く救助出来なかったのかと思われてならない。

印象的だったのは救助後のこと。箝口令が引かれていたため、一緒に乗っていて助からなかった児童の家族からの問いかけに答えられず、責められてしまう。どんなに辛かったろう。そうでなくても目の前で友人が家族が沈んでいくのを見るしかなかった事実に打ちのめされていたのに。何と酷なことを子どもに強いたのだろう。
さらに沖縄に戻った後に今度は空襲に遭い家を焼かれた話もあって、いったいどこまで子どもたちの苦難は続くのか。

この取材の後亡くなった方もいる。「黒川の女たち」でも思ったが、記録して残してくれたことに感謝したい。そしてこれを読んだわたしたちができることは何なのか、考えていきたいと思う。

この本を読んだ後に、大城立裕『対馬丸』を読んだが、けっこう重複している部分があり、どちらの記載にあったのか混乱してしまった。だから正確ではないかもしれないけれど、思うことを書いてみた。『対馬丸』についてはまた別に書く。
ぼちぼち動こう

ぼちぼち動こう

このところ体調がいまひとつなのと、ずっと戦争関連の書籍や映像に触れてきたせいで、精神的にも疲弊していた。体を動かすのが億劫で、午前に一通り家事を終えたら、もう動けなくなってダラダラしていた。
でもそろそろ動こう。見たもの読んだものがどんどんたまっていき、考えなければならないこと、知らなければならないことが、どんどん増えていく。

そういえば京都に住んでいた子どもの頃、この時期は地蔵盆だった。楽しい地蔵盆が終わると夏休みも残りわずかとなり、夕方に吹く風が少し涼しく感じられ、ああ夏も終わりこれで自由な時間も終わるんだ、ともの悲しい思いに囚われていたっけ。二学期が始まればそれはそれでまたすぐ日常に戻るのだけど、そこまでの夏の名残りを惜しむ気持ちがあの頃はあったのだ。今のような暑さではもうあんな気持ちにはなれないだろう。
スイッチ・パブリッシングの絵本

スイッチ・パブリッシングの絵本

池澤夏樹(文)と黒田征太郎(絵)の戦争と平和を伝える絵本シリーズ3冊。どれも力強い絵と簡潔で静謐な文が心に迫る。

『旅のネコと神社のクスノキ』2022年
広島の陸軍被服支厰の横の神社にあったクスノキとネコとの対話。

『ヤギと少年、洞窟の中へ』2023年
沖縄戦で亡くなったひめゆりの生徒への鎮魂。真っ暗いガマ(洞窟)で少年が出会うひめゆり生徒。絵本の後半は生徒それぞれの名前と死亡日と場所が、1人ずつ一輪の花を添えて記されている。

『対馬丸とボーフィン』2024年
対馬丸とそれを撃沈した潜水艦ボーフィンの会話。
「対馬丸」関連書籍

「対馬丸」関連書籍

映画「満天の星」をきっかけに、もっと対馬丸のことを知りたくなった。この他にも図書館にリクエストしているが、県内で所蔵している図書館が少なく、手元に届くのはまだまだ先になりそう。とりあえずこちらから読んでいく。

絵本『対馬丸とボーフィン』池澤夏樹/文 黒田誠太郎/絵 スイッチ・パブリッシング 2024年

昨年の刊行時に読んだけれど、これを機会にあらためて購入。この時初めて対馬丸を沈めた船の名前と、この船がパールハーバーに誇らしく展示してあることを知った。船同士を会話させる発想がすごい。
著者は「満天の星」のパンフレットに寄稿している。

『海に沈んだ対馬丸 子どもたちの沖縄戦』 早乙女 愛・著  岩波ジュニア新書 2008年
この著者が生存者の中島高男さんに2007年にインタビューした映像が「満天の星」に使われている。監督との対談もパンフレットに載っている


『対馬丸』大城立裕・著 長新太・さし絵 理論社名作の森 2005年

1961年に刊行され(文林書房)、1975年に再刊(おりじん書房)、さらに1982年の刊行で(理論社大長編シリーズ)で全面的に改稿されていると、作者のあとがきにある。当時の文書や対馬丸遭難学童名簿もあり、読み応えありそう。
奥付には大城立裕、嘉陽安男、船越義影、と3人の名前がある。目次の後に「3名が分担執筆したものを、最終的に大城が補筆、整理した」と書いてある。
映画「満天の星」

映画「満天の星」

映画「満天の星」
Ottoにて鑑賞。
何と言ったらいいか複雑。対馬丸生存者の証言部分は、当事者の言葉がずしりと重く心に響いた。だが映画そのものの作りに違和感があり戸惑ってしまった。

最初の太平洋戦争についての説明に驚いた。欧米の植民地政策に対抗し、日本はアジア諸国を解放する為に大東和共栄圏を掲げて戦った、と。え?と心底驚いた。この戦時中のプロパガンダをそのまま流しちゃうの?当時の状況の説明のためにあえてそうしたのだろうけど、実際はどうだったのかという検証批判もなくスルーされてしまった。ここからずっと「どうしよう、この映画無理かも」という思いで見てしまった。
証言の部分はよかったので持ち直したのだけど、最後は対馬丸の話というより個人的な話になってしまったように感じてしまった。ごめんなさい。わたしにはこの映画だめでした。
ただ対馬丸についてもっと知りたいと思うきっかけにはなったので、それには感謝している。
黙祷 長崎

黙祷 長崎

8月9日 午前11時02分 黙祷。

黙祷の時鐘が鳴り、その後違う音色の鐘が鳴った。最初に鳴ったのは原爆で破壊され今年復復元された鐘。元々2つあった鐘が大鐘は瓦礫に埋まっていたのを掘り起こされ復活したが、割れてしまった小さい方の鐘は復元されずにいた。その鐘がアメリカの信徒の尽力で寄付が集まり、復元されて寄贈されたのだという。
きれいな音で鳴り出した新しい鐘の音の後に、原爆を乗り越えた大鐘の重厚な音色が重なった。なんで二つ鳴ってるのかと思ったが、「双塔の鐘」と呼ばれた本来の音色だったのだ。


紫色のトレニアも咲いてきた。こぼれ種だけど元気で嬉しい。