今月の絵手紙のモチーフは春野菜ということで、アスパラガスと菜の花を描いた。
いつもの画仙紙ではなく、コーヒーフィルターに描いたので、ちょっと変わった趣きでこれもまたよし。
その後2つとも茹でて食べた。おいしかった。
映画「おくびょう鳥が歌うほうへ」
ノラ・フィングシャイト/監督 2024年 イギリス/ドイツ
4/6 OttOにて鑑賞
何と表現すればいいのだろう。オークニー諸島の荒々しい自然に晒され巻き込まれ吹き飛ばされ、主人公ロナを演じるシーシャ・ローナンをひたすら見つめ続けた時間だった。
シアーシャがアルコール依存症の女性を演じる、という情報だけで見たので、いろいろ戸惑った。
時系列が前後するので見ている間中混乱して非常に疲れた。鑑賞後自分なりに時系列を再構築して、なんとか何が起きているか理解できたような気がする。これが出来るのも、それだけ各場面の映像が、強烈な印象を残しているからだろう。何でこんなややこしい構成なのかと思ったけど、これはずっとロナ自身の視点から描かれていて、そのせいでロナの混乱状態が、そのまま自分のことのように感じられた。だから疲れた。
シアーシャの繊細な表情、突発的に破壊的に暴れ回る行動、とにかく目が離せなくて、痛々しくてたまらなかった。
ラスト近く荒れる波を指揮するかのようなシアーシャの動きが美しく、そこに過去のさまざまな映像が重なり、それら全てを彼女が自分の内に取り込み自在に扱っているかのように見えた。彼女が、父親が風をコントロールしていると思っていた、と語る場面があったけど、この場面の彼女がまさにそのようであった。
ところどころ神話的イメージもあり、言葉でなく映像が物語っているようだった。
映画「長安のライチ」
ダーポン(大鵬)/監督・脚本・主演 2025年 中国
4/3 OttOにて鑑賞
わくわく胸熱な前半と打って変わって、非情な展開になる後半が辛すぎた。皇帝も宰相も宦官も官僚たちも、お前たちみんなみんな滅んでしまえ!と叫びたくなる。
唐の時代の中国、「南方の嶺南の生のライチを長安に届ける」という無理難題を押し付けられた下級役人の李善徳。ただでさえ痛みやすい生のライチを、何千キロの道のりを新鮮なまま運ばなくてはならない、到底不可能な任務。善徳はていのいい生贄に選ばれたのだ。
名もない力もない者が、誠実さと熱意と知恵を持って、その人柄で惹きつけた仲間たちと力を合わせて難題を克服していく。運ぶ時間の短縮とライチの鮮度を保つ方法が、試行錯誤しながら次第に形になっていく様子には胸が熱くなる。このまま成功してお偉方の鼻をあかしてやれ!と思ったら…。
懸命な努力で何とかあと少しというところまでこぎつけたのに、官の介入で様相が一変する。民間ではこれが限度なので朝廷の力を借りようとした善徳を責めることはできない。
それまでハナもひっかけなかったのに、上手くいきそうになると途端に介入してきて手柄を横取りする。いつの世でも上層部のやりそうなことだ。
辛い展開の後半で唯一良かったのは、迎えの船がきたこと。蘇諒、いい奴だな。最初胡散臭いと思ってて悪かったよ。
ただ一つ残ったライチの壺を抱えて、夜の長安を駆け抜ける善徳の姿には涙が出る。そして善徳からこぼれ落ちる木綿花の赤い花びら。それは妻に約束した約束の花であるが、それよりもこの任務を果たすために散っていった数多の人々の血のように感じられた。彼らは命令に従い、善徳を信じて最後までついて来てくれたのに。
何のための任務か、何のための邪魔だてか。すべて宮廷の権力闘争のせい。そんなもののために命をかけたのか、と虚しくなる。だから善徳が思いのたけを宰相にぶつけたのは気持ちよかった。言ったれ言ったれ!
善徳が嶺南に追放され、家族でライチを植えるラストシーンは美しい。できればあの墓標には全員の名前を書いて欲しかったけど。
エンドロールのバックの絵巻物がとてもよかった。
映画「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち
寺田和弘/監督
3/23 OttOにて鑑賞
予告編の時から辛かった。裁判の結果は知っていたが断片的なものでしかなく、この裁判の経緯をしっかり見つめたいと思った。
「あの日、何があったのか」「事実を知りたい」という親御さんたちの強い思いは、人ごとではない。
映像の大部分は亡くなった児童の遺族の方が撮影したものなので、初めて見る映像が多く、特に第1回の学校説明会の映像が衝撃的だった。教師の中で唯一の生存者だった方の姿があったのだ。説明する先生もそれを聞く遺族もどちらの姿も辛かった。この時を含めてその後何回も行われた説明会での、学校と教育委員会の態度に不信感を募らせる遺族の気持ちは、もっともだと思った。都合の悪いことを隠蔽し責任逃れしようとしているように見えた。本来なら学校と家庭が協力して子どもを守るもののはず。それが遺族と一緒に検証しようという姿勢が見えなかった。遺族が最終的に裁判を起こすまでになったのも無理はない。
裁判を起こすことで批判も中傷も脅迫もあったという。「誰も裁判なんか起こしたくない」と遺族は言う。真実を求める裁判だけど、裁判を起こすということは、わが子の命の値段をつけるという非情な事実にも直面しなければならない。どんなに辛い決断だっただろうか。それに耐えて裁判を闘い抜いた遺族の方々の強い思い、その一言一言が胸に刺さる。
とても辛かったが、やはり見てよかった。
映画「医の倫理と戦争」
山本草介/監督
安全保障関連法に反対する医療・介護・福祉関係者の会、シグロ/共同制作
3/16 OttOにて鑑賞
恐ろしさおぞましさに震え、それでも勇気をもらえた。これは全ての人に見てほしいドキュメンタリー映画。
冒頭の医療関係者たちの平和を訴えるデモ。思ったより人数少なくて驚いた。その参加者の1人の医師の話がすごく説得力があった。
ー医療が救える命は年間何百何千に過ぎない。しかし戦争が起こると何万の命が失われるだからこそ医療従事者が率先して戦争反対を訴えるべきではないかー
全くその通り、なのにこの参加者の少なさ。戦争反対を訴える彼らは医療従事者の中でかなりの少数派だという衝撃。
映画はそれを探っていく。
驚いたのは医学部で平和教育はしていないという。全国の医学部の医学部長が戦争に協力しないという発言もないという。
それはどの専門学会も、戦争中のことについて反省していないからだという指摘に、悲しいことだが納得してしまった。医学界に限らず日本の国全体がそれをしていないのだから。
その後731部隊についての資料や証言が続く。かなり衝撃的な映像もあり見るのが辛い。この731部隊の医師による国家的犯罪が長らく知られないでいたのは、戦後東京裁判にかけられなかったからだという。731部隊の人体実験のデータをアメリカに渡しその代わりに罪を問わないという取り引きがあったから。ああ、そうだったのか。その反省もないまま、それを隠微したまま戦後の医療体制がスタートしたのか。そして当時この部隊に所属していた医師たちが、社会復帰してそのまま大学や製薬会社などで出世していく。わたしはこれに従事した医師たちは罪に問われなくても少なくとも戦後ひっそり暮らしていると思っていた。そういう人もいたけどごくわずか。また当時のことを「国のため、研究のため、人の命を救うためだったんだから」と証言する人もいた。そう思わないとやってられなかったとは同情するけど、そう弁明する姿はやはり醜悪に見えた。
その後精神医療の問題、高齢者医療、終末期医療、従軍慰安婦問題、などさまざまな問題が描かれる。
「医師にとって最も重要なことはなんですか?」という問いに、日野原重明医師は「戦争させないこと」と答えた。
これはWHOの決議書の文でもあるという。
「医療と医療従事者が、平和を維持し促進するための行動をとることが、すべての人々の健康を保持するのに最も重要である」
冒頭で訴えていた医療従事者はこれを実践している。この活動がもっともっと広まってほしい。
今の世界の現状に気力がそがれ落ち込むことが多いけど、こうして諦めずに訴え続ける人たちが数少なくても居ることは、ほんの少し希望が持てる。特に高齢の女性が多く声を上げている姿には勇気づけられた。わたしなどまだまだ若い。微力だけど自分で出来るかぎりのことをやっていこうと思う。
映画「みんな、おしゃべり!」
河合健/監督 2025年
3/13 OttOにて鑑賞
とてもおもしろい、そしていろいろ考えさせられた映画だった。監督自身がCODAであり、「史上初の言語大合戦ムービー」とコメディ調の紹介がチラシにあり、たしかに「言葉」についての話だけど、それ以外の要素がいっぱいつまっていた。
また観客にろうの方たちが半数近くいらして、劇場内で手話が飛び交っていた。
ろう者の家族とクルド人家族が、ちょっとしたすれ違いからそれぞれのコミュニティを巻き込んだ騒動が起こる。
電機店を営む古賀家は父親と息子がろう者で、母親(故人)と姉娘が聴者。家にはろう者仲間がよく集まっている。この街に新しく料理屋を出店する予定のクルド人家族とその仲間たち。ろう者とクルド人、この2つのコミュニティの中でもいろいろ違いがある。
ろう者の父親が「医療が発達して人工内耳や補聴器が主流になると、手話がなくなってしまう」と危機感を口にする。同じように、トルコ語やアラビア語しかわからない者に「クルド人ならクルド語を話せ!」と苛立つクルド人もいる。彼らの苛立ちと対立は、無神経な町おこしプロジェクトのエージェントの介入でますますこじれてくる。
この2つのコミュニティの意思疎通には姉の手話と、日本で生まれ育ったクルド人青年の日本語が必要になってくる。常に通訳の役割を担わされる2人、特に姉は同じ聴者である母親を失ったこともあり、より負担が大きい。その姉がとうとう爆発して投げ出してしまうのも無理はない。CODAの悩みは、澁谷智子著『コーダの世界』でも取り上げられていた。
その通訳の2人の不在中に2つのコミュニティの仲が好転する。父親の職人魂の見せどころはかっこよかった。お互いちっとも通じない言葉で盛り上がる様子はベタだけど、やっぱり胸が熱くなる。
この作品の、あえて言えば悪役には、先のエージェントともう1人、聾学校での弟の担任教師がいる。聾学校には補聴器や人工内耳により、ある程度聴力のある児童も在籍している。この教師はその児童たちの方だけを向いて、音声日本語で授業している。一応あまり上手くない手話も使っているが、聴力のない児童の方は置いてけぼりだ。弟はそんな教師を無視して授業も聞かず、手話で話そうともしない。自分を尊重しない相手には従う必要はない。自分の尊厳は自分で守る。そんな決意が見える。教師はその弟のことを、うわべはいかにも心配しているようで実際は持て余し、父親や姉に苦言を吐く。悪気はない風でいてエージェントよりも悪質だ。
ただわたしも気づかないうちにこの2人のように、マイノリティの人たちに対して、自分の思い描いた姿やストーリーを作り上げているかもしれない。そのストーリーに合致した者だけを取り上げようとする彼らの姿に、怒りだけでなく自分を振り返ることができた。
チラシには「消滅危機言語」という言葉がある。2つともかつて言語として認められず、使用を禁止されていた日本手話とクルド語。言語格差や言葉の壁をシニカルに描いているという。
作中でもそのことを口にするシーンがあった。そしてこの作品ではもうひとつ言語が登場する。それはろう者の弟が作った言葉だ。家庭内でも積極的に手話で話さない弟は、偶然拾ったアラビア文字のメモを参考に自分だけの言語(文字)を編み出す。
弟はちゃんと手話でも話せる。でも彼にとって1番しっくりきたのは、かつて母親と交わしたノートで書いた絵文字だったのだろう。母親の思い出と共に彼にとってとても大切な言葉だったのだと思う。3年前に母親が亡くなったことは、彼だけでなくこの家族それぞれに影を落としている。
弟が作った言語をいち早く理解して一緒に使い始めたのは、大人ではなく子どもたちだった。特に弟と対立していたように見えた子が、1番熱心に使ってくれたのはとても良かった。
この弟の言語に関連して、手話に関連する本をいろいろ読んだことを思いだした。
かつて手話を禁止され口話(音声日本語)を強制されそれが苦痛で、手話に出会い初めて自分を表現出来る言語を得た喜びを語る人。一方手話が苦手で口話の方が合っている人もいる。また日本手話とは違う日本語対応手話(手指日本語)の方が合っている人もいる。
だから手話にこだわらず、自分に1番しっくりくる言語を使ってかまわないのではないか。大切なことはそれぞれの言語を尊重することなのではないか。と素人の部外者ながら思っていた。
なのでこの映画の弟が、自分に合う言語を作り出したことはすごいことだと思った。それを父親から言語と認められたことで(あの教師は認めてないし理解できないだろうけど)、手話も屈託なく話せるようになって良かった。
とにかくこれだけ情報量が多く収拾つかなくなりそうなのに、うまくコメディ調にまとまっていて見ている間中楽しく、見た後はいろいろ考えさせられた。ラストだけがややファンタジー調で不思議だったけど、これはわたしたちに異文化への対応をどうするのか、問いかけているのかなと思った。できればもう一度見たい。
映画「アハーン」
二キル・ペールワーニー/監督 2019年 インド
3/20 OttOにて鑑賞
ダウン症の青年アハーンは、母の手作りお菓子の配達をしている。その配達先のひとつ、潔癖症がすぎて妻に出ていかれた中年男性オジー。母の手伝いではなく、自分の仕事をして自立したいアハーンと、妻との仲を修復したいオジー。この2人の最初は噛み合わないながら次第に友情を育んでいく様子が、明るく楽しく描かれる。ダウン症だって自由に外に出たい、自分の仕事をして、結婚して子どももほしいと願うアハーン。その希望を叶えてやりたくなるオジー。
アハーン役の青年が当事者であることは評価できるが、その他ストーリーなどには少しモヤモヤした。明るく楽しいのはいいのだが、画面の明るさといい、同じムンバイが舞台の話なのに「私たちが光と想うすべて」との違いに少し複雑な気持ちになってしまった。なんだかなあ。
アハーンもオジーも富裕層なのだ。だからこそアハーンはあんなに屈託なくいられる。そして彼が無邪気に夢想する仕事は、父親(多分社会的地位のあるやり手のビジネスマン) のような仕事なのだ。
アハーンにとってちょっと辛い展開もあったけど、最後は希望に満ちた終わり方でおとぎ話風だけど、でもそれはそれでいいのかもしれない。何も辛い現実を見せるばかりがいい映画ではない。明るい気持ちにさせてくれる楽しい映画も絶対に必要なのだから。素直にアハーンの新しい出発を祝おうと思う。
映画「夏休みの記録」
川田淳/監督・撮影・編集 2025年
3/27 OttOにて鑑賞
監督が同じマンションに住むクルド人姉弟の夏休みの宿題を手伝う様子と、母親たちが日本語を勉強する姿を撮影したもの。
ー「難民」でも「仮放免者」でもなく目の前にいる「隣人」としてー
このチラシの文言通り、本当にただそれだけの記録。もともと監督は近所に暮らす在日クルド人たちの家を訪問し、日本語学習支援などを通じて交流してきたという。監督と彼らのごく普通の付き合い方が心地よい。
名前も顔出しもしない、手元だけ映した映像は、それだけに距離の近さを感じられ親近感がわく。
小学生の姉弟のぎゅっと鉛筆を握る手、何かを説明する時の思いっきり大きく動かす手、子どもらしいぷくぷくした手が可愛くってたまらない。監督を信頼している様子がその手の動きと照れたような甘えたような声にあらわれている。本当に親戚のお兄さんに勉強を教わっているような感じがする。
子どもたちは2人だが、母親たちはもっと多い。5、6人か。日本語を教わりながらの母親同士の会話が、ごく普通の井戸端会議みたいで楽しい。夏休みは子どもがいるから勉強が捗らないと愚痴ったり、どこそこへ行ったことあると盛り上がったり、頑張って勉強して日本語ペラペラになる!と希望を述べたり。
子どもたちは机の上で勉強しているのだが、母親たちは床に車座になって勉強している。人数が多いこともあるけれど、これはクルド人の風習なのかなと思った。
何も特別なことが起きない、ごくごく日常の平和で優しいひとときを垣間見られて、こちらも優しい気持ちになれた。
映画「イマジナリーライン」
坂本憲翔/監督・脚本 2024年
3/30 OttOにて鑑賞
本作は監督の東京藝術大学大学院映像研究科の修了制作作品として制作された。
俳優の演技と映像はとても良かった。テーマもいい。いいんだけど、その描き方が甘いというかもどかしかった。これは学生の卒業制作であり、予算も時間も限られた中でのことなので、そこを批判するのは酷だとは思うのだが。感想が難しい。
序盤の文子と夢、親友2人の日常が楽しそうで、だからその幸せな日常が、夢が突然入管に収容されたことで崩れてしまってからの展開が辛かった。これは夢のような立場の人にはいつでも起こり得ることで、そこはとてもリアルだった。文子が、幼馴染で入管職員の船橋君とのやりとりや自分で調べる姿を見せるが、ここは観客にこの制度の理不尽さを訴え考えさせる狙いがあるのかなと思った。ただそれにしてはその描き方がとてももどかしい。あまりにもふんわりとたんなるイメージ、雰囲気にとどまってているように思える。そこをもっと正確にしっかり描いてほしかった。ここが予算の限界(入管のセットや俳優の人数など)かなと思った。
夢の来歴を夢自身が語る場面が終盤あるのだが、それなら収容前の夢の状況をもっときちんと見せるか、きちんとした説明がほしい。仮放免で未成年(母親が強制送還された6年前の時点)の夢が生活するためには、それこそ弁護士や支援者がいないと成り立たないはずなので。(冒頭で夢が仕事をクビになり荒れている姿、手持ちのお金を数えてため息つく場面、旅館で文子の言葉に傷つく姿などで一応あらわしてはいるが)
文子がそんな夢の状況を知らされてなかったことはもちろんあり得る。だが初めてそのことを知った文子が、弁護士として自分の叔母を夢に紹介するのはおかしい。そこは今までの支援者を登場させる方が自然では?今まで夢をサポートしてきた支援者や弁護士などが、文子に夢のことや入管制度について説明して、文子が今まで何も知らないでいたことを悔い、夢に寄り添おうと決意する、という展開にすればよかったと思う。
文子が最後に夢のことを映画にしようとするが、それが文子が今できる精一杯のことなのだろう。そして船橋君は、これからどうするのか。何らかの支援活動してくれればいいなと思う。
ミュージカル「ルドルフ」ウィーン版
原作/フレデリック・モートン著『ルドルフ ザ・ラスト・キス』音楽/フランク・ワイルドホーン
2009年6月19、20日 ウィーン公演
WOWOW放送にて視聴
このミュージカルは日本でも「ルドルフ ザ・ラスト・キス」として上演されたことは(2008年、2012年)知っていたが、見たことはなかった。曲もあまり知らなかったので、興味あってこの機会に見た。
音楽と演者のパフォーマンスはとても良かった。特に女性陣がそれぞれソロもあり、楽曲も歌唱も素晴らしかった。ただストーリーには「なんでそうなるの?」と思うしかなくて、これを再演するなら、もっと脚本と演出を練ってほしいと思った。楽曲がいいのに本当にもったいない。
ストーリーは、オーストリア皇太子ルドルフの心中事件を扱ったもの。そもそもこの事件自体謎もあり、史実をそのまま扱ったものでもないし、原作とも違っているらしい。史実や原作を改変するのはよくあるし、そこは問題ではない。でも引っかかったのは、この作品だと心中相手のマリーが死にそうにないということ。だってヘタレのルドルフよりずっと強いんだよ!ルドルフを追い詰める、悪魔的な首相のターフェと対等に渡り合う場面もあるくらい。唐突に死の場面が現れて、え、これで終わり?と愕然とした。ここにもう少し説得力を持たせてほしい。
ルドルフ役のドリュー・サリッチ、ターフェ役のウーヴェ・クレーガーは、どちらもさすが歌も演技も上手い。
ドリューは「JCS」のユダやジーザスのイカれっぷりが印象的だったので、こんな繊細で情けない役を演じてるのにびっくりした。役者さんってすごいなあ。
ウーヴェさん、「エリザベート」初演時のトート役。つまり世界初のトートでお名前は存じ上げていた。ここで見られて良かった。このターフェがもう圧倒的存在感で舞台に君臨し、人間なのにまるで悪魔のようだった。
ドリューだからまだなんとか対峙出来るけど、うっかりするとルドルフ主役なのにかすみそう。基本ヘタレだから仕方ないけど、このルドルフにもう少し惹きつけるものがほしいと思った。
音楽はいいのでCDはほしい。