映画「オーロラの涙」
ローラ・カイエラ/監督・脚本 2024年 イギリス・ポルトガル
5/22 OttOにて鑑賞
ポルトガルからの移民オーロラは、スコットランドの巨大物流センターで働いている。そのオーロラの日常を淡々と映していく。
一日中商品を取り出す作業に明け暮れ、疲れてシェアハウスに帰宅後は簡単な夕食を取る。特に親しい友人もなく(通勤に車に乗せてもらう同僚がいるが)休憩時間に食事しながら少し会話するくらい。シェアハウスの住人とも必要最低限の会話しかしない。その代わりしょっちゅうスマホをいじっている。
その様子を見るうち彼女がギリギリの生活をしていることがわかってくる。贅沢をするわけでもなくこんなに真面目に働いているのに、貧困から抜け出せないでいる。見ているだけで息苦しくなってくる。
ある日うっかりスマホを落としてしまい、壊れたスマホの修理代を払ってから、彼女の生活が目に見えて変わっていく。食費を削り、シェアハウスの電気代の支払いを肩代わりしてもらったり、会社がイベントで用意したケーキを食事代わりに貪る。もうどうすればいいのかわからない。
ようやく転職希望の職場の面接を受けることになり、少し希望が見えた彼女のやることが、ちょっと贅沢なケーキを買ったり、面接のためにメイクをしてもらったり(美容部員さんがいい人だった)なんかいじらしくて泣けてくる。
面接で「あなたがどんな人か知りたい。仕事以外ではどんなことをしているか、趣味は何か」などを聞かれ、自分には語るべきことが何もないことに気づき愕然とする。思わずちょっと聞き齧った話を、自分のことのように話してみたりするが続かない。ここは辛かった。彼女がもっと狡ければ適当に話をすることもできたろうに、正直な彼女は自分の嘘に耐えられなくなってしまう。この結果がどうなったかは描かれないが、これは彼女の方から断ったのかなと思う。給料の支払いについて聞いた時、週払いではなく月払いで、すぐ働いたとしても来月(あるいは再来月?)との答えだったから。それまでの生活費が今の彼女にはないから。
その帰り道だろうか、公園で倒れている彼女を管理人の老人が発見する。意識がないのかただ寝ていただけなのかわからないけど、この老人は彼女を介抱しようとする。その老人に体を任せ腕に抱きつく彼女。やがて立ち上がり礼を言って去っていく。人の親切、心遣い、温もりが嬉しかったのだろうか。この場面は、こんな世の中でもまだ希望があると思わせてくれたような気がした。
とにかく見ている間中辛くて辛くてたまらなかった。決して彼女が怠けているわけでも贅沢しているわけでもないのに、どうしてもっと報われないのか。しかし今の私たちの生活は、こんな過酷な労働環境に居る人々のおかげで成り立っていることも事実なのだ。そう思うと申し訳なくなってくる。
映画「ただ、やるべきことを」
パク・ホンジュン/監督・脚本 2023年 韓国
5/20 OttOにて鑑賞
2016年、韓国では造船業界が深刻な不況に陥っていた。会社で人事チームに異動となったカン・ジュニは、150人を解雇するリストラ名簿作成を命じられる。対象者を絞り込むうちに、世話になった以前の上司と先輩のどちらかを選ばなければならなくなる。
リストラ対象者の辛さはもちろんだけど、この映画ではそれを選ぶ仕事の辛さを描いていて、とにかく見ていてやり切れなくなった。全ては会社の都合で進んでいく理不尽さ。上層部は下に丸投げして、苦しむのは人事チームと対象者だけ。
チームリーダーは「会社を建て直すためには、新しい血が必要」と言い、カンもやり切れない思いを抱きながら、でも会社のためと自分に言い聞かせ作業を進めていく。それなのにせっかく作ったリストから「この人は除外し、その代わりに他の人を選べ」と命令される。その理不尽さにも耐え粛々と進め、ようやく150人まであと数十人というところまできたところで、今度は外聞が悪くなるのでここで打ち止めにすると言われる。それを聞かされたリーダーは「だから会社が病むんです」と吐き捨てるように言って出ていく。その前に彼は親しい先輩に、それこそ血を吐くような思いでリストラを告げていたから。このリーダーが夜もろくに寝ていない疲れ切った顔をしていて、このあと倒れないか最悪自殺でもしないかと心配になった。
主人公が爆発して会社を辞めるとか、仲間を募って会社に対抗していくとか、そういうドラマチックな展開にはならない。ただひたすらこの辛い作業を追っていく。だからまったくスッキリはしない。でも会社が続いていく限り、社員はやるべきことをやっていくしかない。そこがとてもリアリティがあった。
カンの婚約者が学生時代の先輩に「こいつのどこが良かったんだ」と聞かれて、「この人は間違ったとき、ちゃんと恥じることができる人だから」と言う場面があった。そのことが終盤カンが彼女に「自分のやっていることが恥ずかしくて言えなかった」と告白することと対応していた。言えなかったために彼女との仲がギクシャクすることもあったが、最終的には仲直りできてよかった。
昨日スーパーでいつものりんごa1を買おうとしたら、ロイヤルガラに替わっていた。2年ぶりのお目見え。
昨年は5/8に初顔のポピーが出ていて、そのうちロイヤルガラになるかなと思っていたら、5/28にジャズが出てきた。ロイヤルガラの代わりにポピーだったのか?
今年はa1を買ったのは4/15だった。昨年のポピーよりずいぶん早いなと思ったのだ。ではその後ジャズになるのかと思っていたら、ロイヤルガラ。品種のサイクルが読めない。
ニュージーランドのりんごがいろいろ楽しめていいのだけれど、このままジャズが出ないってことはないよね?
劇団四季「ゴースト&レディ」大阪公演千秋楽
5/17 ライブ配信にて視聴
東京、名古屋、と配信で楽しんできたが、いよいよこの大阪公演で大千秋楽。
未見だった町島さん、芝さんに加え、もう一度見たかった萩原さんもいて見る前からワクワクしていた。
フロー 町島 智子
グレイ 萩原 隆匡
ジョン・ホール 芝 清道
デオン・ド・ボーモン 宮田 愛
アレックス 寺元 健一郎
エイミー 柴本 優澄美
ウィリアム・ラッセル 内田 圭
ボブ 緒方 隆成
「男性アンサンブル」
飯村 和也 佐P 龍城 澁谷 智也 黒田 大夢 計倉 亘 権頭 雄太朗
政所 和行 河上 知輝 川村 英
「女性アンサンブル」
鳥原 ゆきみ 菩提 行 原田 真理 大岡 紋 矢鳴 優花 竹田 理央
町 真理子 奥平 光紀 黒柳 安奈
フローの町島さん、東京公演ではエイミーで、配信で拝見した。声がとても綺麗だったけど、少しお顔が地味だったなあと失礼な感想を持っていた。今回のフロー、最初の声が意外に低くてびっくりした。エイミーの時と全然違う。可憐な令嬢といった谷原さんに比べるともう少し年長で落ち着いた普通の人っぽい。無鉄砲さでグレイを振り回すというより、堅実な行動力でグレイを巻き込んでいる感じ。萩原グレイとの並びが今までで1番しっくりくる。あの終盤の「心の羅針盤〜🎵」からの絶唱は、谷原さんはもうそれまでと明らかに違い、より高い次元、人外の域まで達していたものすごさがあったが、町島さんは意外と静かだった。それまでと地続きなフローのままでありながら、より強く迷いない信念を歌い上げていた。声を張り上げないのにあの高さあの強い声が出せるんだ。激情の谷原さん、揺るぎない強さの町島さん、どちらも素晴らしい。
グレイの萩原さん、最初、東京の配信時より少し力みが見えた。本来の飄々とした自由な感じに少し固さがあるように感じた。でもセリフの間や動きはやはりグレイそのもの、ストーリーが進むにつれ気にならなくなった。このグレイがもう一度見たかったのだ。今回演技が変わったところが、シャーロットの裏切りを知った後に虚しく高笑いするところ。以前の、何が何だが分からずオタオタしてるうちにデオンにやられるのも好きだったが、諦めたように自分からデオンの剣を受けていたように見えた今回も、どちらもいいな。
ジョン・ホールの芝さん。芝さんだからどんな怖い重厚なジョン・ホールかと思ったら、意外と表情がくるくる変わり、声の出し方もその場その場で変えている。一見軽くコミカルにさえ見えるのに、でも小物なのか大物なのか分からない、底知れない恐ろしさがある。
デオンの宮田さん。怜悧でさわったら切れそうに恐ろしい。岡村さんが優雅で色っぽく、少し女性らしさを感じさせるのに対して、宮田さんはあくまでも女性らしさを拒否する。「何だ、その目は!」「トレビアン!」、そして突然の膝蹴り、相変わらず決まってます。ダンスもキレキレ。「僕に相応しい最期」を望んだけど「悪くない」って強がりじゃないですよね。
アレックスとエイミー。アレックスは東京と同じ寺元さん、エイミーは初めての柴本さん。朴訥で誠実そうなアレックスと、本当におぼこいお嬢さまのエイミーは、今までで1番お似合いのカップルに見えた。2人が心から尊敬し追いかけよう守ろうと思っていたのが、同じ相手フローだった。その相手にどうしても手が届かないと悟った時、2人で手を取り合い、別の形でフローを支えようとなったのかと、一応納得できた。
今回も前2回と同じラッセルの内田さんは、流石に安定している。ボブは緒方さん、1番少年っぽい感じだった。ラストの老いた役作りは大変だったろう。
アンサンブルのみなさん、シャーロットはいつもの通りの町さん、元気でキュートでしたたかな彼女、酒場の激しいダンスの後にすぐ歌い出しても息がきれないってすごい。アンサンブルの中に名古屋の配信でエイミーだった竹田さんがいて、映るたびにエイミーだ!と楽しんでいた。そして「限りなき感謝を」のヴィクトリア女王役、たぶん前2回の人と違うけど、とても楽しそうに演じてた。この場面毎回素っ頓狂で、呆れ笑ってるうちに終わるのだけど、仮にも女王さまの場面をこんなふうに演出するなんて、誰のアイデアなんだろう。
カーテンコールが長すぎるのはいつものことだけど、大千秋楽なので今回は特に長かった。役者さんのためにも、もう少し短くしてあげたほうがいいと思うけど。
代表して萩原さんが挨拶してたけど、きっとまた再演があることを信じて待っている。今度は舞台を見に行けたらいいな。
映画「ブータン 山の教室」
パオ・チョニン・ドルジ/監督・脚本 2019年 ブータン ゾンカ語、英語
5/15 Ottoにて鑑賞
ブータンの首都ティンプーに暮らす教師ウゲンは、オーストラリアに行き歌手になることを夢見て、肝心の教師の仕事には身が入らない。そんな彼がティンプーから8日もかかる辺境のルナナ村に赴任することになる。都会育ちで外国に憧れている青年が、電気も携帯電話も通じない辺境の地で村人や子供達とふれあう様子を、美しいヒマラヤの自然を背景に描いていく。
とにかく自然が美しく子どもたちはかわいい。村人は誰もが穏やかで教師として来てくれたウゲンに感謝している。わざわざ隣村から子どもを連れてくる親もいる。ある生徒が将来の夢が教師で、なぜなら「教師は未来に触れることができるから」と言う。それは村長がいつも言っている言葉だった。教育により子どもたちの将来に、できるだけ多くの選択肢を与えてやりたい思いが込められている。おそらくそれまで真面目に考えていなかった教育の大切さに、ウゲンは初めて気付かされたのだと思う。当たり前のようにある教育の機会が、どれほど恵まれたものであるか、この辺境の地の人々がどれほど教育を渇望しているか。最初は「とても無理、今すぐ帰りたい」と言っていた彼が、帰りの準備が整うまで仕方なく教えているうちに、子ども達と過ごす楽しさを覚え、真剣に教育に取り組むようになっていく。もうこのままずっとここで教師をしていればいいのにと思うが、冬が来ると学校は閉鎖されウゲンは町に帰ることになる。元々冬が来るまでの任期だった。
「春になったらまた来てほしい」というみんなの希望には、応えることが出来ない。ずっと憧れていた自分の希望が、叶えられる知らせがきたから。しかし来た時と帰るときでは、明らかに彼の心は違っている。村の人々のように自然を敬い感謝する心を知り、自分の芯になるものを得られたような気がする。いつかまたこの地に帰れるかもしれないという、ほのかな希望も持っているように見える。
村までの旅が結構長くて驚いた。最初の1日はバスだけど、そこからは村からの出迎えの2人と荷運びのロバ3頭で徒歩で行く。しかも一泊は普通の民家、そのあとはずっとテント泊である。美しい声の鳥の鳴き声を聞きながら山道を登り、ぬかるみに足を取られ川を渡り、最後の峠で祈りと歌を捧げる。この旅程をずっと見せて行くことで、目的地がどれほど辺鄙なところなのか、どれほどウゲンがうんざりしているかがわかる。そしていよいよ村に近づくと、空が一気に開け雄大な山々が広がる。どこまでも広がる空と山。この美しい景色を見られただけで幸せな気持ちになる。
子どもたちの曇りのない目がいい。あんな目に見つめられ、全幅の信頼と期待を寄せられると、いい加減にあしらうわけにはいかないだろう。それに応えようとするウゲンも、本当は教師に向いているんじゃないかと思った。彼が教師として目覚める話にしてもよかったたけど、そうではなく彼には彼なりの夢があり、それを追いかけることを否定していないこともよかった。ちょっとあっけなかったけど、村に伝わる「ヤクに捧げる歌」で終わるのがよかった。
村長の「この国は幸せの国と呼ばれているけれど、未来を担うあなたのような人が、外国に出て行ってしまう国なんですね」と寂しそうに言っていたのが印象に残った。国が発展していく過程で新しく取り入れられるもの、失われていくもの、これはどの国にもある課題なのだろう。
映画鑑賞の折に入場者プレゼントとしてブータンのハーブティーをもらった。
映画「ツーリストファミリー」
アビシャン・ジーヴィント/監督・脚本 2025年 インド
5/13 OttOにて鑑賞
スリランカからインドに密入国した家族が、身分を偽りながらも次第に周囲の人々に溶け込んでいく様子を描く、ベタだけど笑いと涙のちょっといい人情噺。
実は冒頭のテロップで「本作はいかなる不法移民を許容も奨励もしない(正確には覚えていない)」という文言が出たので、ちょっとびっくりして何かモヤモヤしながら見てしまった。
映画自体は面白かった。近隣の人々との繋がりが深まる過程は微笑ましく、特に老夫婦との触れ合いや、嫌われ者の青年の告白には胸を打たれた。そういう一つ一つのエピソードはとてもいい。素直に感動した。そして不法移民を逮捕するために訪れた警官に対して、人々が家族を庇うやり方がとても自然だった。この家族との付き合いの中で自然に生まれたコミュニケーションのやり方(スリランカ・タミル語を会話の中で取り入れる)を使い、いつもと変わらぬ生活を見せて、ここではみんな仲良く平和に暮らしていることを伝える。決して不自然に力説しない。
それを受けて家族を見逃す巡査長の言葉がいい。
「人に慕われるのは金か権力があるから。でも金も権力もないのに慕われるのは人柄だ」
いい話だ。確かにいい話だ。ただここで映画冒頭のテロップを思い出し、複雑な気持ちになった。これ、つまり「こんないい人柄の移民なら歓迎します」ということではないのか?それ以外の移民は受け入れないのか?現在日本で移民排斥を訴える人の言い分がまさにこれなのだ。
それと悪役の警部が失態を犯したことで家族は救われたのだが、その失態がちょっと酷かった。警部の残酷さを際立たせるためだろうが、あの暴力場面と顛末はやりすぎだと思った。
またシリアスな場面とコミカルな場面が頻繁に入れ替わる、その緩急の付け方がこれは完全に好みの問題なのだが、わたしには少々うるさく感じられた。
本作のパンフレットはとても充実している。物語の背景のインド、スリランカの言語、民族、宗教、生活習慣など、大変勉強になった。その中でもマラヤーラム語とケーララ人の箇所では、映画「私たちが光と想うすべて」の主人公たちの話していたのがこの言葉だったことを思い出した。またこの映画では言葉が重要な意味を持ち物語を動かしている。それが先日の「湯徳章」で知った台湾の多言語に繋がり、映画がいろいろな興味を引き出してくれることがとても嬉しい。
ニュースなどで盛んに「夏本番の前にエアコンの試運転を!」と言ってるので、我が家でもそろそろやろうと思っていた。今週末から30°C越えの日もあるという予報なので、今日冷房の試運転をした。冬場暖房に使っていて、完全に使わなくなってから1ヶ月くらい経つ。ダストボックス、フィルターの掃除をしてから試運転。4台あるエアコン全て正常に作動した。これで今年の夏も無事に乗り切れますように。
今月の絵手紙の画材は「花」。メンバーそれぞれ花を持ち寄った。
わたしは玄関横の自治会の花壇のパンジーを持っていった。もうすぐ植え替え時期なので撤去が決まっていて、その前に好きな花をもらえるというので、パンジーの中でも1番好きなのを選んだ。我が家ではこの子を「1番のべっぴんさん」と呼んでいる。
別のメンバーが庭の芍薬をたくさん持ってきて、好きなのを持って帰っていいというので、ありがたくいただいた。
芍薬とパンジー、ひとつずつでも可愛いが、並べて見るとさらに可愛い。
映画「ナースコール」
ペトラ・フォルぺ/監督・脚本 2025年 スイス・ドイツ
5/9 OttOにて鑑賞
スイスのある州立病院のある1日。その日の遅番の看護師フロリアの出勤から退勤までの話。出勤直後から息つくひまもない彼女の仕事振りを追っていくので、見終わってからどっと疲れた。
これは世界中で深刻な問題なのだろうが、とにかく人手不足で看護師一人一人の負担が大変重い。その上この日は同僚の1人が病欠のため、26人の入院患者を2人の看護師で受け持つことになる。これを聞いただけで気が遠くなるが、フロリアは手際よくこなしていく。病室を巡回し適切な処置をして、患者の話には誠実に耳を傾け、無理な要求は笑顔で交わし、時には外線の電話にも出て対応し、ナースコールにも応える。手術室や検査室への送迎も何回もある。
次から次へと通常業務をこなす他に、緊急業務も飛び込んできてそれにも対応する。よく混乱しないなと感心するが、さすがに彼女もだんだん疲れが見えてきて、最初見せていた笑顔も見られなくなる。
わたしは患者として、また患者の家族としてしか病院業務を知らないけど、映画の初めからずっと彼女と一緒に看護師の仕事をこなしているような気になった。でも彼女の手早くテキパキこなす様子は、手際の悪いわたしとはテンポが合わず(実際に仕事してるわけじゃないのにオタオタしてしまった)それもあってとても疲れた。
そもそもこんな膨大な仕事を、ギリギリの人員でこなしていることが問題だ。映画の最後に看護師が足りないことがテロップで出るが、これを解消するには看護師の待遇改善しかないのではないか。看護師は体力が必要だし精神的にもタフでないと務まらない、とつくづく思った。
それなのに患者からは文句ばかり言われて報われない。それでも時々はホッとするふれあいの機会もある。またすぐ業務に戻らなけばならないので、ほんのひとときではあるが、それが息抜きになっているのだろう。フロリアのロッカーに患者からの手紙だろうか、感謝の言葉が貼り付けてあって、こういうちょっとしたことが、彼女の慰めと励みになっているんだなと思った。映画のラストの少しファンタジーっぽい画面は、フロリアに対するささやかなご褒美のような気がした。
映画「湯徳章ー私は誰なのかー」
黄銘正・連髴ィ/監督・プロデューサー・撮影 2024年 台湾
5/8 OttOにて鑑賞
湯徳章は「トゥン・テッチョン」と読む。映画の初めにわざわざテロップで「湯徳章(トゥン・テッチョン)は台湾語での読み方に統一しています」という断りがでた。ということは他の読み方もあるのか?とちょっと思った。
そして鑑賞後思ったことは、言語を含めてわたしは台湾のことを何も知らないのだということだった。特に台湾の歴史をきちんと知らないでいたことを痛感した。知らないながらわからないながらも、必死で映画に食らいついて、興奮し憤り安堵し感動した。ああ、きちんと勉強した後にもう一度見たい、と切実に思った。
台湾の台南市に湯徳章の名が冠せられた公園がある。かつてここには、日本統治時代は総督だった児玉源太郎の像が、日本の敗戦後には孫文の像が建っていたという。今はその孫文の後に建てられた湯徳章の胸像がある。通りにも彼の名前がついていたり、そんなに有名な人なのか、と思いきや、彼がどんな人だったかは知る人は少ないという。なぜ? 映画は彼の生涯を追っていく。
日本の植民地時代に、日本人の警官の父と台湾人の母との間に生まれた湯徳章は、最初父と同じく警官になるが、その後日本で弁護士資格を取り台湾で事務所を開く。日本の敗戦後、中国本土からの国民党政府が統治を担い、国民党政権と台湾民衆との対立から二二八事件が起こり、首謀者として逮捕され処刑された。処刑の場所が今彼の名前の公園になっている。
彼を知る手掛かりは、戸籍?とか当時の新聞や学校の通知表や官報(?)など、ほとんどが一次資料。当時は日本の植民地だったのでそれらも全て日本語だった。その資料の文字と、画面の横に出る資料の説明、画面の下方に出るナレーションの字幕、など情報がいっぱいで、それらをすべて読もうとすると、うっかりナレーション字幕を読み逃したりした。資料がなまじ日本語で読めるためつい読もうとしてしまう。集中するのが難しく、目をあちこち移動させるのに忙しくとても疲れた。新聞社の倉庫で1947年3月の新聞を見つけた時のスタッフの歓声が印象的だった。こうやって丹念に資料を見つけ出し読み解いていったのだなあ。映画関係者の仕事ぶりには頭が下がる。
彼を直接知る人の証言だが、これはかなり難航したよう。彼の息子さん(養子)をようやく見つけたけど、最初は口が重い。長い時間をかけて話してくれたが、この息子さんの様子といい、なぜ資料が残っていないのかは、映画を見ている間は気づかなかった。パンフレットやwebを検索してようやく、二二八事件とその後戒厳令が長く続いた台湾の歴史を知った。湯徳章の資料が残っていないこと、遺族の口が重いこと、その理由が台湾の歴史にあったことを知り、これは気軽に感想を述べるわけにはいかないと思った。またその歴史には日本の植民地政策が大きく関わっている。日本語で書かれた資料、流暢に日本語を話す彼の息子さんなど、日本の植民地政策がどれだけ強固になされたかがわかり、複雑な気持ちになる。
タイトルにある「私は誰なのか」は彼が終生問い続けたものだったようだ。彼の経歴を見ると何度も姓を変え、日本人の叔父と養子縁組もしていた(後に解消)。しかし逮捕され明らかに違法な酷い裁判で「日本人だ」と決めつけられた彼は、毅然と「自分は台湾人」と答える。冒頭のテロップにある通り、彼はやはり台湾人として生きたのだ。
終わり近くの言葉が印象的だった。うろ覚えだが
「樹木は歴史 建築は歴史 今この瞬間が歴史 わたしたちが歴史」
台湾の歴史をもっと勉強しなければと思う。