映画「黒の牛」

映画「黒の牛」

映画「黒の牛」
蔦哲一朗/監督・脚本・編集 2024年 日本=台湾=アメリカ

4/24 OttOにて鑑賞

こんな映画初めて。これはもう映画館でないと見られない。とても集中が続かないです。主演のリー・カンションの顔を正面からずっと見つめ続けたり、白いもやの向こうで彼がもがいているのを(たぶん餅を喉に詰まらせている)ずっと眺めていたり、白い画面が続いて続いて続いて‥とにかく根気よくずっと見つめ続けていた。わたしはこのリー・カンションは初めてみる俳優だったけど、娘は以前「郊遊 ピクニック」でやはり彼の顔をずっと長い間見つめ続けていたそうだ。そんな映画ばかりなのか? でもこれだけアップにずっと耐えられるってなかなかすごいな。

「十牛図」=禅僧の修業過程を象徴的に描いた十枚の絵と、その詩文・解説からなる一連の図像。
その「十牛図」から着想を得て制作された、圧倒的映像美で誘う、内なる宇宙と森羅万象をめぐる旅。ーパンフレットによるとそうなんですって。だからそうなんでしょう。もうそう思って見るしかないです。

ずっと白黒画面だったのに、ラストで急にカラーの大画面になって驚いた。そして居るのは牛ばかり。遠くでなんか爆発が起こってる。これってあの世なのかしら。あの爆発で人間社会は滅びましたって言ってるのかなあ。なんかわかったようなわからないような、不思議なものを見てきました。でもね、とても面白かったのですよ。もう一度くらい見たいなあ。

エンドロールでのキャストクレジット、リー・カンションの次が、牛の「ふくよ」だったの!田中泯より先に出たの!すごいわ、ふくよちゃん!
映画「私たちの話し方」

映画「私たちの話し方」

映画「私たちの話し方」
アダム・ウォン/監督 2024年 香港 広東語・香港手話

4/17 OttOにて鑑賞

異なる環境に育った3人の聾者の若者。手話だけを使うジーソン、ジーソンの幼馴染で口語と手話の両方を使うアラン、人工内耳のアンバサダーを務め口語のみを使うソフィー。3人が出会いその交流の中でそれぞれの生き方に変化が生まれてくる。

ものすごく情報量が多くさまざまな問題を含んでいるのに、それが深刻で重苦しいものにならず、爽やかで気持ちの良い映画だった。

最初にジーソンとアランが通った頃の香港の聾学校が映るが、2005年当時は口話教育を強制され手話は禁止されていた。(これは日本も長くそうだった)ヒステリックに手話を禁じる教師をよそに、子どもたちは割と自由に手話で会話していて、あまり悲壮感がない。教師に教室の外の廊下で離れて立たされた二人だけど、手話で会話できるのであまり意味がないのが面白かった。アランはこの後人工内耳を装着する予定なのだけど、そうなっても手話は使い続けると約束する。この場面はとてもいい。

この後2010年には国際ろう教育会議の声明「ろう教育はすべての伝達方法を受け入れ、手話を復権させる」とテロップで説明が出た。香港のろう学校では、今は手話と口話の両方で教育をしているそうだ。手話も口話もどちらでも本人に適したものを使う、その選択肢があることがもっとも重要なのだと思う。

家族全員ろう者で手話のみを使うジーソンは、ろう者であることや手話に誇りを持っている。そんないつも活発で明るいジーソンでも、自分の夢の実現にろう者であるが故の壁が立ち塞がった時は、怒りと悲しみで落ち込む。

アランの家族はたぶん聴者だろう。しかしろう学校に通わせたり、ジーソンとの付き合いも自然と受け入れる。アランが屈託なく聴者社会に適応出来ているのも、本人の性格と努力もあるが、そんな家族の姿勢があるからではないかと思う。また人工内耳も常に最新のものを装着できる経済的余裕があることも大きい。(ソフィーの人工内耳がずいぶん古いことに驚いていた)彼も一度人工内耳の外部装置(補聴器みたいな形)を外す場面がある。しばし無音の状態にいた彼は、やがてまた外部装置をつけて音の世界に帰る。

ソフィーは3歳で聴力を失い人工内耳を装着した。母親はたぶんシングルマザーなのではないかと思う。人工内耳も支援団体の補助で装着していたし(だからアランのように最新のものではない)、とにかく聴者と同じように娘を「普通」に育てようと必死だ。気持ちはわかる。娘を聴者社会から弾かれた存在にしたくない、ちゃんと普通の生活ができるようにしたいという強い思い。それは娘のためでもあるが、同時に娘のろう者としてのアイデンティティーを奪うことになる。絶対にろう者と触れ合うことは許さず、徹底して読唇と口話の訓練を課す。その母親の期待に応えようと厳しい訓練を耐え抜き、聴者の世界で大学も卒業し大企業に就職もできた。だがアランとジーソンと知り合い、ジーソンから手話を習い、ろうのコミュニティと触れ合うことで次第に今までの生き方に迷いが出てくる。人工内耳があってもクリアに聞こえるわけではない。雑音は混じるし、正確に聞き取るためには読唇が必要になる。だから学友や同僚と一緒にいても、完全にその場に溶け込めてはいない、常にどこか不安で孤独を感じている。そんな彼女だが、街中で手話で話す親子と同席して自分も手話で話す時、ジーソンのろうの仲間たちといる時、とても明るい表情を見せる。母親に「(手話なんか覚えたら)ろう者になってしまう!」と言われた時「私はろう者よ!」と言い返す。
しかし聴者の世界でも孤独な彼女は、人工内耳のアンバサダーをしたことで、ろう者のコミュニティからも「エセろう者」と非難され傷つく。これは仕方ないとはいえ彼女にとってはとても辛かったろう。
そして夜の街に向かって彼女は手話で独白する。「普通を目指してやってきたけど、普通のハードルは高い。選べるなら私は静寂を選びたい」
母親は彼女の選択を認めながら「でもあなたと話したい」と述べる。声で会話したいという母親の希望も切ない。(以前読んだ漫画『わが指のオーケストラ』でろうの子どもに手話でなく口話を選んだ母親が「我が子からお母さんと呼ばれたいんです」と切実な思いを口にする場面があったのを思い出した)2人が手話をしながら口語でも話す場面はとても良かった。

正解は一つだけではなく、その人にあったやり方を選べばいい。その選択肢が自然にある社会であってほしい。3人はそれぞれの道に進む。3人のこれからに幸あれと願う。

とにかくいっぱい思うこと伝えたいことがあって、とても言葉が足りない。今はとりあえずこれだけしか書けなかった。できればまた見たいし、多くの人に見てほしい映画だった。
『日本国憲法』

『日本国憲法』

『日本国憲法』
齋藤陽道/写真 港の人/発行
2022年(右)2026年(左)

日本国憲法の全文は、恥ずかしながらしっかり読んだことはなかった。2022年の初版で初めて真面目に読んだ。驚いた。齋藤さんの写真があることで、文字だけで読むよりしっかり頭に入ってくる。子どもや高齢者や障害のある方など、何もなき普通の人々(むしろ弱い立場の人々)の笑顔が並んでいる。そうだ、こういう人々のこの笑顔この生活を守るためにこそ、この憲法はあるんだということが、ものすごく素直に伝わってくる。
今回の新版では写真の数が増え、より一層その思いが強くなる。

たまたまだが、この新版は今朝郵便受けに入っていた。新聞を取りに行って一緒に入っているのを見つけた。こんなに早朝に配達されるわけがないので、たぶん昨日配達されたのに気づかなかったのだろう。偶然とはいえ、まさに憲法記念日のこの日に届いたことが、意味のあることに思えてならない。襟を正してしっかり読もうと思う。
いろいろ悩ましい

いろいろ悩ましい

5月なのになんでこんなに寒いのか。雨もかなり激しく降ってて、今日は一日中家の中に閉じこもっていた。本当はやることが山盛りでぼんやりしてる暇などないのに、天候のせいかどうも気力がわいてこない。

先月見た映画の感想がたまっているのだが、今月は読書会のレポーターなのでそちらのほうに気持ちが向いてしまっている。でも本の手配が遅れてしまい、レジュメの準備が進まない。困ったな。

今月も見たい映画がいっぱいで、本来ならうきうきするところなのに、いくつかは見るのを諦めなくてはならなくなった。仕方ない、こんな時もあるさ。

今日こんなに寒かったのに(暖房入れようかと思ったほど)明日は夏日ですと?いいかげんにして下さいよ、もう。

ご近所さんからいただいたミヤコワスレ。もう2週間にもなるけどまだちゃんと咲いている。
『僕には鳥の言葉がわかる』

『僕には鳥の言葉がわかる』

『僕には鳥の言葉がわかる』
鈴木俊貴/著 小学館  2025年

学問とか研究とか聞くと小難しいものだと構えてしまうけど、構えない文章がユーモラスで著者の興奮がこちらにも伝わり、ワクワクしながら楽しく読んだ。
学問ってまず「好きなこと」から始まるんだ!ああ、いいなあ、これは嬉しい。でもその研究は地道で根気のいるフィールドワーク。仮説を立て、その検証のため膨大なデータを集める。それは並大抵の苦労ではないだろう。でもそれを感じさせず楽しく読ませるなんてすごい。普通に読み物としてとてもおもしろかった。
著者はこの研究を通して動物言語学という新しい学問を立ち上げたという。何も特別な鳥ではなく、シジュウカラに注目したこと。学問の世界、研究者への道はこんなに身近にあるものなのか。この世界にはまだまだ知らないこと分からないことは多い。その広い世界の入り口をのぞかせてくれたことに感謝したい。子どもたちにも未来への希望が与えられたと思う。

世界についての新たな気づきや発見を得ることは、特別な場でなくても、誰しも日常の暮らしの中で体験できるものーこの著者の言葉が嬉しい。

シジュウカラの鳴き声はよく聞くけど、違いまでは意識したことなかった。
特別付録のシジュウカラの鳴き声で確認してみたら、どうやら聞いたことあるのは「縄張り宣言」「警戒しろ」「集まれ」みたいだ。
『図書館の魔女 高い塔の童心』

『図書館の魔女 高い塔の童心』

『図書館の魔女 高い塔の童心』
高田大介/著  講談社  2025年

2013年の『図書館の魔女』上下巻、2015年の『図書館の魔女 烏の伝言』から10年、待ちに待った刊行、本編の前日譚である。それなのに刊行直後に購入したままずっと手付かずだった。あまりに待ちすぎて内容をほとんど忘れていたので、あらためて読む前に読み直してから、などと思ってる間にほぼ1年経ってしまった。その間にもう1巻今度は本編の続編が刊行され、このままだと2冊とも本棚の飾りになってしまう。前作の再読は諦めて読むことにした。

本編より前の時代、一の谷の「図書館の魔女」の先代「高い塔の魔法使い」マツリカの祖父タイキの時代。マツリカはまだ6、7歳ながら既に「図書館の魔女」の片鱗を見せている。読みながら、本編を初めて読んだ興奮が蘇ってくる。何気ない一言から推測、確認、解決へと進んでいく流れの痛快さ。ああ、そうだった、これがまた読みたかったのだ。今回はまだキリヒトはいないが、こちらも同じく先代と思われる人がいた。ただ二ザマのミツクビとの間に遺恨を残したのは、何か嫌な予感がする。
そしてタイキから明かされるマツリカの両親の話。あまりの悲痛さに胸が痛む。

ハルカゼがタイキやマツリカに感じたこと。

ーその人の頭の中では、あらゆることが結びついている。あらゆることが相互に関係し合っていて、何かを動かすと、それに連動して全てが動き始める。(中略)だが、そうした関係の全体、相互作用の全体を把握して統覚しているような知性のあり方に触れると、むしろ恐れを覚えないではいられない。ー

あまりにも凡人とかけ離れたものは、それが良きものであってもどことなく恐れを抱くのは当然だろう。まだ幼いマツリカには、同時に痛々しさも覚えてしまう。

そしてタイトルの意味が分かった時、ハルカゼの優しさが心に沁みた。
漫画『本なら売るほど』1〜3巻

漫画『本なら売るほど』1〜3巻

漫画『本なら売るほど』1〜3巻
児島 青/著 KADOKAWA 2025年,2026年

1、2巻は電子書籍で購入していたが、やはり紙の本で持っていたいと思い、3巻の発売を機会に全巻買い直した。読むだけなら電子で構わないのだが、確認したい事がある時にはページをめくる方が探しやすいし、本をならべて見比べることも出来る。読まなくてもただ単にぱらぱらめくるだけでも楽しいのだ。

最新の3巻で十月堂の店舗の大家さんが登場。十月堂が開店した経緯が描かれて、1巻の岡書房のエピソードと繋がった。常連さん同士の思いがけないつながりや交流も少しずつ生まれ、レギュラーメンバーが増えていくのも楽しい。まさか美大の彼がまた出てくるとは思わなかった。着物の彼女の着こなしも気になるし、「しゃれこうべの八掛」の粋なおばあさんにまた会いたい。
リリア再開

リリア再開

川口のリリアが2024年3月から2026年3月まで大規模改修のため休館していた。ようやく7月にグランドオープンとなり、リオープン記念の公演がいろいろ企画されている。
その中の一つが「リリア音楽ホールで聴く日本の歌」で、2015年から始まり、わたしは2018年、2019年と鑑賞した。それからも毎年あるなら絶対行こうと思っていたけれど、コロナ禍以降は行くのを控えていた。今回リリアのリオープン記念でこのコンサートも新たにSeason2となり、再開された。昨日会員対象のチケット先行販売があり、初めてネットで購入した。以前は電話で申し込んでいたが、せっかくネット登録したので使ってみたのだが、iPadからだとちょっと使いづらかった。画面が大きくならないので座席指定が難しかった。これからは娘のPCを借りた方がいいかもしれない。

コンサートは7月でまだ先だけど今から楽しみでならない。今回メンバーの1人の坂下忠弘(バリトン)さんが、村松稔之さん(カウンターテナー)に代わっている。坂下さんの声は艶があって好きだったけど、カウンターテナーの声を生で聴くのは初めてなので、それは楽しみ。メンバーの加耒徹さんがバリトン、田代万里生さんがテノールなので、3人それぞれ音域が違うのも楽しみだ。
映画「ぼくの名前はラワン」

映画「ぼくの名前はラワン」

映画「ぼくの名前はラワン」
エドワード・ラブレース/監督・脚本 2022年 イギリス  クルド語・英語・イギリス手話

4/10 OttOにて鑑賞

映像はとてもきれいだったのだが、カメラワークがちょっとドラマのようで、今まで見てきたドキュメンタリーと違って戸惑ってしまった。
「心に傷を負ったろう者の少年が、新天地での出会いと学びによって自分らしさを獲得していく」というのはわかったのだが、その戸惑いのせいで映画にあまり没頭出来なかった。実は寝不足気味だったので、途中幾度か寝落ちしそうになってしまった。ごめんなさい。

映画鑑賞後にパンフレットの「本作は少年の自由な頭の中と連動するダイナミックで抒情的な映像と音楽で描写する」とあるのを読んで、ようやく納得できた。そうかラワンの事以外の説明があまり詳しくなかったのはそういうことで、ラワン主体の映像だったからか。映像は確かにすごかったが、音楽はちょっと過剰に感じられた。

ろう者であるラワンが自分を表現できる手段を得た時の喜びは、どれほどだったろうか。それこそ世界が広がり希望が見えたことだろう。彼の表情がそれを物語っている。イラクにいた時は自分をポンコツと思っていたという彼が、自信を持ち友人も出来、今は生き生きと過ごしている。彼の笑顔が曇ることのないようにと願う。



ろう者を取り巻く環境は、ラワンに限らず日本でも厳しいものがある。「みんな、おしゃべり!」でも感じた事だった。
そして今回もろう者の方が結構見に来ていた。こうやってごく普通にろう者と聴者が同席できる環境っていいな。

この映画の日本語字幕及びバリアフリー字幕監修に那須映里さんの名前があった。NHK「みんなの手話」でもおなじみで、この方が活躍しているのがとても嬉しい。
「みんな、おしゃべり!」出演の那須英彰さん、以前「みんなの手話」に出演していた那須善子さんがご両親。わたしは那須善子さんのきれいな手話にいつも見惚れていた。
映画「はだしのゲンはまだ怒っている」

映画「はだしのゲンはまだ怒っている」

映画「はだしのゲンはまだ怒っている」
込山正徳/企画・監督・編集 2025年

4/8 OttOにて鑑賞

原作者中沢啓治さんの妻をはじめ、講談「はだしのゲン」を演じ続ける講談師、原爆当時の記憶を語る被爆された方たち、「はだしのゲン」の英訳版を作った人たち、その他さまざまな人の証言を通して、「はだしのゲン」の誕生から現在を見つめるドキュメンタリー。

近年図書館や教科書から「はだしのゲン」が消えているという。それは広島でさえそうなのだということに驚く。その理由はいろいろあるだろうが、その一つに作品中でゲンがアメリカに向かって怒りをぶつけている描写が、今の政府の気にいらないのだろうという指摘があった。ああ、またそれなのか、と情けなく思う。
アメリカでは、原爆投下が戦争を終わらせたという認識が根強くある。原爆の実態が正しく伝わっていないのだ。だからこそ英訳版を作った人たちがいることに感謝したい。
それと、教育上望ましくないという理由。わたしは残酷な場面のせいかと思ったら、なんでも鯉を盗む場面があって、盗みはいけない事だから、という。なんというこじ付けだろうか。
また歴史認識に誤りがあるという人の意見もあった。その人の持論は「あの戦争は日本が追いつめられやむなく始めたもの」という。そういう考えがあることは知っている。わたしの父もそう言っていた。しかし軍部が暴走した事は事実だし、他の国を攻撃して占領して勝手に国を作った事が正しいとは言えないだろう。

こういう近年の風潮をみると、国に都合の悪いことには蓋をして、排斥しようとする力が働いていることを感じる。だからゲンは「まだ怒っている」のだ。わたしたちはこの「怒り」を決して風化させてはならないと思う。

終盤に、原爆を受け自身は助かったが幼い弟を亡くした方が、腹話術で原爆を語る公演が描かれていた。弟の死の場面は悲惨で辛かったが、この方は最後に日本の加害責任についてもきちんと述べていて感動した。この方はもう90歳を越えていられた。被爆された証言者の方たちも皆高齢で、このインタビュー後に亡くなられた方もいた。この方たちの証言を無駄にしてはならないと思う。ここでも「医の倫理と戦争」と同じく勇気をもらえた。