『ヘンリー六世』全三部
『ヘンリー六世』第一部 第二部 第三部
ウィリアム・シェイクスピア/著 小田島雄志/訳 白水社(白水社Uブックス)1983年
『新訳リチャード三世』(角川文庫 河合祥一郎・訳)を読んだ時、訳者のあとがきで『ヘンリー六世』の中でかなりリチャードについての記述があるというので、興味が出てきて読んでみた。
登場人物の多さとその関係の複雑さに頭を抱えた。次から次へと同じような名前の人物が出てきては、喋りまくって退場していく。以前コピーしておいた巻末の「薔薇戦争関係系図」をそばに置いて、いちいち参照しながら読んだ。それでもすぐ「あれ?これ誰だっけ?」となって、また参照しなければならず、もういい加減やめたくなった。だいたい名前でなく爵位で呼ばれているし、その爵位も◯代目によって違う人なのに同じ呼び名だし、一体お前は誰なんだ?!と叫びたくなる。イギリスの人たちってこれで誰が誰かわかるのか?本当に?それに気を取られて起きている出来事が頭に入ってこない。セリフだけで進んでいくから何が起こっているか理解する前に話が進んでいく。戯曲はやはり実際の舞台を見た方が分かりやすいのだろうなあ。
それでも読んでみて薔薇戦争のだいたいの流れがわかったので、やっぱり読んで良かったとは思う。
登場人物みんな好き勝手に喋りまくり、泣いたり喚いたり、裏切ったり裏切られたり、勝ったり負けたり、まあ忙しいこと。王国というスケールのデカさはあるが、所詮は身内の跡目争いに過ぎないのに、なんとも傍迷惑なこと。振り回される国民が気の毒だ。戦闘で死ぬのはまだしも謀略で死んだりいたぶられて死んだり、なんとも後味が悪い。あんたらいい加減にしろよと言いたい。
まあこれだけ凄まじい身内の争いがあった末に、悲願の王位についたヨーク家なので、『リチャード三世』の冒頭、リチャードがいう長い台詞、長い冬が去って我らの時代が来た、という言葉が実感を持つ。
印象に残ったこといくつか。
第一部ではジャンヌ・ダルクの扱いが、ちょっとひどい。なんか下品で口が悪いし、イギリス側からみたら魔女にして貶めたいのだろうけど、これが当時の認識だったのかな。
第一部の最後でマーガレットが登場して、サフォーク伯が彼女に惚れて自分のそばにおきたいからヘンリー六世と結婚させるという、え?そんな理由で?と驚いた。
でも第三部ではエドワード四世がエリザベス・グレイに惚れて、せっかくフランス王の妹との婚儀が決まっていたのを反故にして、そのせいでウォリック伯の面子を潰して離反させてしまうし、もう〜みんな恋愛沙汰で国が動きすぎるんですけど。
第二部では第一部では可憐に見えていたマーガレットが(これは私の読み方が浅いせいかも、元からそんな感じだったのかもしれないけど)、可憐どころか烈女ぶりを発揮する。なにしろ優柔不断で戦さに消極的なヘンリーにとって代わり、自分がランカスター軍の指揮を取るのだ。もともと第一部で出会ったサフォークの方をヘンリー六世より好ましく思っていて、サフォークが死んだ時は彼の首を抱えて嘆き悲しむ。それをみたヘンリーは「私が死んでもそんなに悲しまないだろう」と言う。なんか気の毒。そしてマーガレットのすごいところは第三部で、ヨーク公リチャード・プランタジネットをいたぶり殺すところ。よくこれでヨーク側が国王になった時殺されなかったな。『リチャード三世』でも呪いの言葉を撒き散らす魔女のような存在感を見せていた。
第二部でリチャード・プランタジネットが、自分たちの方がランカスターより正当な王位継承権を持つと説明していて、この理屈が「ランカスターは4男の血筋、自分たちは父は5男だが母が3男の血筋」というもの。これが本当に確かな正当性を持つものなのか?後のヘンリー七世であるリッチモンド伯と比べたら確かにそうだけど、ヘンリー六世まではヨークもランカスターもそれほど大差ないと思うけど。
当時のイギリスではこの認識が一般的だったのかどうかはわからないけど、ある程度共通認識だったからシェイクスピアも作品に書いたのかなと思う。
読むのに苦労したけど、でもこれを『リチャード三世』の前日譚として頭に入れて、『リチャード三世』の再読に挑もうと思う。
ウィリアム・シェイクスピア/著 小田島雄志/訳 白水社(白水社Uブックス)1983年
『新訳リチャード三世』(角川文庫 河合祥一郎・訳)を読んだ時、訳者のあとがきで『ヘンリー六世』の中でかなりリチャードについての記述があるというので、興味が出てきて読んでみた。
登場人物の多さとその関係の複雑さに頭を抱えた。次から次へと同じような名前の人物が出てきては、喋りまくって退場していく。以前コピーしておいた巻末の「薔薇戦争関係系図」をそばに置いて、いちいち参照しながら読んだ。それでもすぐ「あれ?これ誰だっけ?」となって、また参照しなければならず、もういい加減やめたくなった。だいたい名前でなく爵位で呼ばれているし、その爵位も◯代目によって違う人なのに同じ呼び名だし、一体お前は誰なんだ?!と叫びたくなる。イギリスの人たちってこれで誰が誰かわかるのか?本当に?それに気を取られて起きている出来事が頭に入ってこない。セリフだけで進んでいくから何が起こっているか理解する前に話が進んでいく。戯曲はやはり実際の舞台を見た方が分かりやすいのだろうなあ。
それでも読んでみて薔薇戦争のだいたいの流れがわかったので、やっぱり読んで良かったとは思う。
登場人物みんな好き勝手に喋りまくり、泣いたり喚いたり、裏切ったり裏切られたり、勝ったり負けたり、まあ忙しいこと。王国というスケールのデカさはあるが、所詮は身内の跡目争いに過ぎないのに、なんとも傍迷惑なこと。振り回される国民が気の毒だ。戦闘で死ぬのはまだしも謀略で死んだりいたぶられて死んだり、なんとも後味が悪い。あんたらいい加減にしろよと言いたい。
まあこれだけ凄まじい身内の争いがあった末に、悲願の王位についたヨーク家なので、『リチャード三世』の冒頭、リチャードがいう長い台詞、長い冬が去って我らの時代が来た、という言葉が実感を持つ。
印象に残ったこといくつか。
第一部ではジャンヌ・ダルクの扱いが、ちょっとひどい。なんか下品で口が悪いし、イギリス側からみたら魔女にして貶めたいのだろうけど、これが当時の認識だったのかな。
第一部の最後でマーガレットが登場して、サフォーク伯が彼女に惚れて自分のそばにおきたいからヘンリー六世と結婚させるという、え?そんな理由で?と驚いた。
でも第三部ではエドワード四世がエリザベス・グレイに惚れて、せっかくフランス王の妹との婚儀が決まっていたのを反故にして、そのせいでウォリック伯の面子を潰して離反させてしまうし、もう〜みんな恋愛沙汰で国が動きすぎるんですけど。
第二部では第一部では可憐に見えていたマーガレットが(これは私の読み方が浅いせいかも、元からそんな感じだったのかもしれないけど)、可憐どころか烈女ぶりを発揮する。なにしろ優柔不断で戦さに消極的なヘンリーにとって代わり、自分がランカスター軍の指揮を取るのだ。もともと第一部で出会ったサフォークの方をヘンリー六世より好ましく思っていて、サフォークが死んだ時は彼の首を抱えて嘆き悲しむ。それをみたヘンリーは「私が死んでもそんなに悲しまないだろう」と言う。なんか気の毒。そしてマーガレットのすごいところは第三部で、ヨーク公リチャード・プランタジネットをいたぶり殺すところ。よくこれでヨーク側が国王になった時殺されなかったな。『リチャード三世』でも呪いの言葉を撒き散らす魔女のような存在感を見せていた。
第二部でリチャード・プランタジネットが、自分たちの方がランカスターより正当な王位継承権を持つと説明していて、この理屈が「ランカスターは4男の血筋、自分たちは父は5男だが母が3男の血筋」というもの。これが本当に確かな正当性を持つものなのか?後のヘンリー七世であるリッチモンド伯と比べたら確かにそうだけど、ヘンリー六世まではヨークもランカスターもそれほど大差ないと思うけど。
当時のイギリスではこの認識が一般的だったのかどうかはわからないけど、ある程度共通認識だったからシェイクスピアも作品に書いたのかなと思う。
読むのに苦労したけど、でもこれを『リチャード三世』の前日譚として頭に入れて、『リチャード三世』の再読に挑もうと思う。








