映画「みんな、おしゃべり!」
河合健/監督 2025年
3/13 OttOにて鑑賞
とてもおもしろい、そしていろいろ考えさせられた映画だった。監督自身がCODAであり、「史上初の言語大合戦ムービー」とコメディ調の紹介がチラシにあり、たしかに「言葉」についての話だけど、それ以外の要素がいっぱいつまっていた。
また観客にろうの方たちが半数近くいらして、劇場内で手話が飛び交っていた。
ろう者の家族とクルド人家族が、ちょっとしたすれ違いからそれぞれのコミュニティを巻き込んだ騒動が起こる。
電機店を営む古賀家は父親と息子がろう者で、母親(故人)と姉娘が聴者。家にはろう者仲間がよく集まっている。この街に新しく料理屋を出店する予定のクルド人家族とその仲間たち。ろう者とクルド人、この2つのコミュニティの中でもいろいろ違いがある。
ろう者の父親が「医療が発達して人工内耳や補聴器が主流になると、手話がなくなってしまう」と危機感を口にする。同じように、トルコ語やアラビア語しかわからない者に「クルド人ならクルド語を話せ!」と苛立つクルド人もいる。彼らの苛立ちと対立は、無神経な町おこしプロジェクトのエージェントの介入でますますこじれてくる。
この2つのコミュニティの意思疎通には姉の手話と、日本で生まれ育ったクルド人青年の日本語が必要になってくる。常に通訳の役割を担わされる2人、特に姉は同じ聴者である母親を失ったこともあり、より負担が大きい。その姉がとうとう爆発して投げ出してしまうのも無理はない。CODAの悩みは、澁谷智子著『コーダの世界』でも取り上げられていた。
その通訳の2人の不在中に2つのコミュニティの仲が好転する。父親の職人魂の見せどころはかっこよかった。お互いちっとも通じない言葉で盛り上がる様子はベタだけど、やっぱり胸が熱くなる。
この作品の、あえて言えば悪役には、先のエージェントともう1人、聾学校での弟の担任教師がいる。聾学校には補聴器や人工内耳により、ある程度聴力のある児童も在籍している。この教師はその児童たちの方だけを向いて、音声日本語で授業している。一応あまり上手くない手話も使っているが、聴力のない児童の方は置いてけぼりだ。弟はそんな教師を無視して授業も聞かず、手話で話そうともしない。自分を尊重しない相手には従う必要はない。自分の尊厳は自分で守る。そんな決意が見える。教師はその弟のことを、うわべはいかにも心配しているようで実際は持て余し、父親や姉に苦言を吐く。悪気はない風でいてエージェントよりも悪質だ。
ただわたしも気づかないうちにこの2人のように、マイノリティの人たちに対して、自分の思い描いた姿やストーリーを作り上げているかもしれない。そのストーリーに合致した者だけを取り上げようとする彼らの姿に、怒りだけでなく自分を振り返ることができた。
チラシには「消滅危機言語」という言葉がある。2つともかつて言語として認められず、使用を禁止されていた日本手話とクルド語。言語格差や言葉の壁をシニカルに描いているという。
作中でもそのことを口にするシーンがあった。そしてこの作品ではもうひとつ言語が登場する。それはろう者の弟が作った言葉だ。家庭内でも積極的に手話で話さない弟は、偶然拾ったアラビア文字のメモを参考に自分だけの言語(文字)を編み出す。
弟はちゃんと手話でも話せる。でも彼にとって1番しっくりきたのは、かつて母親と交わしたノートで書いた絵文字だったのだろう。母親の思い出と共に彼にとってとても大切な言葉だったのだと思う。3年前に母親が亡くなったことは、彼だけでなくこの家族それぞれに影を落としている。
弟が作った言語をいち早く理解して一緒に使い始めたのは、大人ではなく子どもたちだった。特に弟と対立していたように見えた子が、1番熱心に使ってくれたのはとても良かった。
この弟の言語に関連して、手話に関連する本をいろいろ読んだことを思いだした。
かつて手話を禁止され口話(音声日本語)を強制されそれが苦痛で、手話に出会い初めて自分を表現出来る言語を得た喜びを語る人。一方手話が苦手で口話の方が合っている人もいる。また日本手話とは違う日本語対応手話(手指日本語)の方が合っている人もいる。
だから手話にこだわらず、自分に1番しっくりくる言語を使ってかまわないのではないか。大切なことはそれぞれの言語を尊重することなのではないか。と素人の部外者ながら思っていた。
なのでこの映画の弟が、自分に合う言語を作り出したことはすごいことだと思った。それを父親から言語と認められたことで(あの教師は認めてないし理解できないだろうけど)、手話も屈託なく話せるようになって良かった。
とにかくこれだけ情報量が多く収拾つかなくなりそうなのに、うまくコメディ調にまとまっていて見ている間中楽しく、見た後はいろいろ考えさせられた。ラストだけがややファンタジー調で不思議だったけど、これはわたしたちに異文化への対応をどうするのか、問いかけているのかなと思った。できればもう一度見たい。
映画「アハーン」
二キル・ペールワーニー/監督 2019年 インド
3/20 OttOにて鑑賞
ダウン症の青年アハーンは、母の手作りお菓子の配達をしている。その配達先のひとつ、潔癖症がすぎて妻に出ていかれた中年男性オジー。母の手伝いではなく、自分の仕事をして自立したいアハーンと、妻との仲を修復したいオジー。この2人の最初は噛み合わないながら次第に友情を育んでいく様子が、明るく楽しく描かれる。ダウン症だって自由に外に出たい、自分の仕事をして、結婚して子どももほしいと願うアハーン。その希望を叶えてやりたくなるオジー。
アハーン役の青年が当事者であることは評価できるが、その他ストーリーなどには少しモヤモヤした。明るく楽しいのはいいのだが、画面の明るさといい、同じムンバイが舞台の話なのに「私たちが光と想うすべて」との違いに少し複雑な気持ちになってしまった。なんだかなあ。
アハーンもオジーも富裕層なのだ。だからこそアハーンはあんなに屈託なくいられる。そして彼が無邪気に夢想する仕事は、父親(多分社会的地位のあるやり手のビジネスマン) のような仕事なのだ。
アハーンにとってちょっと辛い展開もあったけど、最後は希望に満ちた終わり方でおとぎ話風だけど、でもそれはそれでいいのかもしれない。何も辛い現実を見せるばかりがいい映画ではない。明るい気持ちにさせてくれる楽しい映画も絶対に必要なのだから。素直にアハーンの新しい出発を祝おうと思う。
映画「夏休みの記録」
川田淳/監督・撮影・編集 2025年
3/27 OttOにて鑑賞
監督が同じマンションに住むクルド人姉弟の夏休みの宿題を手伝う様子と、母親たちが日本語を勉強する姿を撮影したもの。
ー「難民」でも「仮放免者」でもなく目の前にいる「隣人」としてー
このチラシの文言通り、本当にただそれだけの記録。もともと監督は近所に暮らす在日クルド人たちの家を訪問し、日本語学習支援などを通じて交流してきたという。監督と彼らのごく普通の付き合い方が心地よい。
名前も顔出しもしない、手元だけ映した映像は、それだけに距離の近さを感じられ親近感がわく。
小学生の姉弟のぎゅっと鉛筆を握る手、何かを説明する時の思いっきり大きく動かす手、子どもらしいぷくぷくした手が可愛くってたまらない。監督を信頼している様子がその手の動きと照れたような甘えたような声にあらわれている。本当に親戚のお兄さんに勉強を教わっているような感じがする。
子どもたちは2人だが、母親たちはもっと多い。5、6人か。日本語を教わりながらの母親同士の会話が、ごく普通の井戸端会議みたいで楽しい。夏休みは子どもがいるから勉強が捗らないと愚痴ったり、どこそこへ行ったことあると盛り上がったり、頑張って勉強して日本語ペラペラになる!と希望を述べたり。
子どもたちは机の上で勉強しているのだが、母親たちは床に車座になって勉強している。人数が多いこともあるけれど、これはクルド人の風習なのかなと思った。
何も特別なことが起きない、ごくごく日常の平和で優しいひとときを垣間見られて、こちらも優しい気持ちになれた。
映画「イマジナリーライン」
坂本憲翔/監督・脚本 2024年
3/30 OttOにて鑑賞
本作は監督の東京藝術大学大学院映像研究科の修了制作作品として制作された。
俳優の演技と映像はとても良かった。テーマもいい。いいんだけど、その描き方が甘いというかもどかしかった。これは学生の卒業制作であり、予算も時間も限られた中でのことなので、そこを批判するのは酷だとは思うのだが。感想が難しい。
序盤の文子と夢、親友2人の日常が楽しそうで、だからその幸せな日常が、夢が突然入管に収容されたことで崩れてしまってからの展開が辛かった。これは夢のような立場の人にはいつでも起こり得ることで、そこはとてもリアルだった。文子が、幼馴染で入管職員の船橋君とのやりとりや自分で調べる姿を見せるが、ここは観客にこの制度の理不尽さを訴え考えさせる狙いがあるのかなと思った。ただそれにしてはその描き方がとてももどかしい。あまりにもふんわりとたんなるイメージ、雰囲気にとどまってているように思える。そこをもっと正確にしっかり描いてほしかった。ここが予算の限界(入管のセットや俳優の人数など)かなと思った。
夢の来歴を夢自身が語る場面が終盤あるのだが、それなら収容前の夢の状況をもっときちんと見せるか、きちんとした説明がほしい。仮放免で未成年(母親が強制送還された6年前の時点)の夢が生活するためには、それこそ弁護士や支援者がいないと成り立たないはずなので。(冒頭で夢が仕事をクビになり荒れている姿、手持ちのお金を数えてため息つく場面、旅館で文子の言葉に傷つく姿などで一応あらわしてはいるが)
文子がそんな夢の状況を知らされてなかったことはもちろんあり得る。だが初めてそのことを知った文子が、弁護士として自分の叔母を夢に紹介するのはおかしい。そこは今までの支援者を登場させる方が自然では?今まで夢をサポートしてきた支援者や弁護士などが、文子に夢のことや入管制度について説明して、文子が今まで何も知らないでいたことを悔い、夢に寄り添おうと決意する、という展開にすればよかったと思う。
文子が最後に夢のことを映画にしようとするが、それが文子が今できる精一杯のことなのだろう。そして船橋君は、これからどうするのか。何らかの支援活動してくれればいいなと思う。
ミュージカル「ルドルフ」ウィーン版
原作/フレデリック・モートン著『ルドルフ ザ・ラスト・キス』音楽/フランク・ワイルドホーン
2009年6月19、20日 ウィーン公演
WOWOW放送にて視聴
このミュージカルは日本でも「ルドルフ ザ・ラスト・キス」として上演されたことは(2008年、2012年)知っていたが、見たことはなかった。曲もあまり知らなかったので、興味あってこの機会に見た。
音楽と演者のパフォーマンスはとても良かった。特に女性陣がそれぞれソロもあり、楽曲も歌唱も素晴らしかった。ただストーリーには「なんでそうなるの?」と思うしかなくて、これを再演するなら、もっと脚本と演出を練ってほしいと思った。楽曲がいいのに本当にもったいない。
ストーリーは、オーストリア皇太子ルドルフの心中事件を扱ったもの。そもそもこの事件自体謎もあり、史実をそのまま扱ったものでもないし、原作とも違っているらしい。史実や原作を改変するのはよくあるし、そこは問題ではない。でも引っかかったのは、この作品だと心中相手のマリーが死にそうにないということ。だってヘタレのルドルフよりずっと強いんだよ!ルドルフを追い詰める、悪魔的な首相のターフェと対等に渡り合う場面もあるくらい。唐突に死の場面が現れて、え、これで終わり?と愕然とした。ここにもう少し説得力を持たせてほしい。
ルドルフ役のドリュー・サリッチ、ターフェ役のウーヴェ・クレーガーは、どちらもさすが歌も演技も上手い。
ドリューは「JCS」のユダやジーザスのイカれっぷりが印象的だったので、こんな繊細で情けない役を演じてるのにびっくりした。役者さんってすごいなあ。
ウーヴェさん、「エリザベート」初演時のトート役。つまり世界初のトートでお名前は存じ上げていた。ここで見られて良かった。このターフェがもう圧倒的存在感で舞台に君臨し、人間なのにまるで悪魔のようだった。
ドリューだからまだなんとか対峙出来るけど、うっかりするとルドルフ主役なのにかすみそう。基本ヘタレだから仕方ないけど、このルドルフにもう少し惹きつけるものがほしいと思った。
音楽はいいのでCDはほしい。
『もしも君の町がガザだったら』
高橋真樹/著 2025年 ポプラ社
約30年に渡ってパレスチナに関わってきたノンフィクションライターの著者が、パレスチナ問題を小学生から読めるようにわかりやすく解説した本。
パレスチナについてはいくつかの本を読んでいて、いくらか知識はあるつもりだった。しかしこの本は子ども向けながら、伝えるべきことをきちんと正確にわかりやすく書いてあり、とても優れた入門書だった。知っていたはずのことでも、時間がたつと恥ずかしいことに忘れていることも多い。そんな抜け落ちた部分を再認識させてもらえた。折にふれ読み直していきたいし、人にも勧めていきたい本。
以前『ガザとは何か』等を貸した友人から「難しくて最後まで読めなかった」「これ片方からの見方ってことはない?」と言われてショックを受けた。きちんと説明出来なかった自分が情けなかった。自分でもよく理解できていないことを恥じた。
この本の著者も「パレスチナ寄りの方の話はわかりました。今度はイスラエル寄りの方の話を聞いてみたいです」と言われたことがあるそうだ。
著者は言う。
「パレスチナ寄り」「イスラエル寄り」と分けて考えているかぎり、大事なことは理解できない。
そして、南アフリカ共和国のアパルトヘイトを例に出して説明している。あの時代に「アパルトヘイト反対」と言っても「黒人寄り」と批判されることはなかった。ポイントは人種差別への反対であり、黒人の味方か白人の味方かという立場は存在しない。このアパルトヘイトの話ならだれにでもわかるのに、パレスチナ問題になると偏見のフィルターがかかってしまう。「イスラエルVSパレスチナ」という作られた構図にとらわれているからだ、と言う。
そうこれは作られた構図なのだ。このことは第4章の「誤解だらのパレスチナ問題」を読むとよくわかる。「いったい何と何が争っているのか?」ここをしっかり押さえておかないとパレスチナ問題を正確には理解できない。
ぜひ多くの人にこの本を読んでもらいたい。日本のメディアの放送だけで判断すると、作られた構図に目を奪われ本質を見逃してしまう。わたしもまだまだ知らないこと理解できないことが多い。もっともっと勉強していかなければと思っている。
先週は定期的な受診が三件あり、(眼科、内科、整形外科)その合間をぬって映画館に行ったり、今週の読書会の準備をしていて忙しかった。
内科ではいつものアレルギーの薬を処方してもらうだけのつもりだったけど、1ヶ月以上前から気になっていた爪の怪我を診てもらった。右手の人差し指をドアにぶつけた拍子に爪の端っこ1/4(縦方向)が凹んでしまい、痛みもないのでそのうち爪が伸びたら治るだろうとほっておいた。ところがいつまでたっても凹んだままの状態で伸びてきてしまい、爪の付け根に妙なコブが出来てきた。甘皮かと思ったけど、甘皮よりぶ厚く爪のようには硬くない。新しい爪がその下から生えてきているので、凹んだ状態のまま爪が伸びている。このままだと永遠に爪が凹んだままなのか?この肉厚の皮のようなものは、ほっておいたらいずれ取れるのか?心配になってきた。凹んだ部分と正常な部分に段差があるので、手を使うときそこに引っかかってさらに割れ目が出来たりして、いろいろと都合が悪くなっていた。そこで医師に相談してみようと思ったのだ。
先生には「肉芽が出来てるので、これが取れない限り正常な爪は生えてこない。ほっといても取れるだろうけど、けっこう時間たってるから自然には無理かもしれない」と言われた。液体窒素で焼き切るか、もう少し様子みるか、と言われてとりあえず様子見ることにした。
1週間たって肉芽は取れそうもなく、爪の上部が剥がれかかって状態が悪化していたので、結局焼き切ってもらうことになった。3回くらいで取れるかなということで、今日は1回目。1回の処置で3度液体窒素を患部に当てる。1度め2度目は痛みはなかったけど、3度目が飛び上がるほど痛かった。2回目の処置には中5日空けないとならないとのこと。そして月に4回までしか処置できないという。液体窒素を使った処置は初めてだったけど、イボを取ったりする普通の方法らしい。長く生きてるといろんな経験をするものだなあ。
庭の水仙が咲きはじめた。相変わらず背が低いけど、いつも咲いてからもう少し丈が伸びてくる。
このところ風が強くて散歩に出られなかった。今日は風もおさまったので、ようやく出かけられ、川向こうの公園に行ってみた。
2週間前にはまだ咲きはじめたばかりだった河津桜。今日は満開だった。公園の花壇にはパンジー、水仙、菜の花、足元にはオオイヌノフグリやホトケノザも咲いていた。川沿いのソメイヨシノの根元にはライトアップ用のライトも設置されていた。今年の見頃はいつ頃かな。ロウバイはもう終わっていたけど、モモが咲いていたり、爛漫の季節がもうすぐやってくる。
川にはダイサギ、カルガモ、オオバン、コガモがいて、河津桜にメジロとヒヨドリが来ていて、開花前のソメイヨシノの枝でシジュウカラが鳴いていた。
映画「ベ・ラ・ミ 気になるあなた」
ゲン・ジュン/監督・脚本 2024年 フランス、ポルトガル
3/6 OttOにて鑑賞
はじめはまったく見る気はなかった。予告編でも冴えないおっさんが変な会話してるし、なんだこりゃ?と思っていた。それが映画館で何回も予告編を見てるうちに、そのおっさんがだんだん可愛く見えてきて、なんだか気になって気になって仕方なくなってきた。もう見るしかない。
中国黒竜江省のある町。若い男に別れを言い渡される中年男シュー・ガン。妻がいるが自分の気持ちに正直になろうと、初めてゲイコミュニティに接触するジャン・ジーヨン。
この2人の話が中心だけど、他に人工授精で子どもを持とうとするレズビアンカップルも登場する。その精子提供者の男性とその恋人の男性。主役2人に付きまとうレストランの店主等々。これらの人々が、みんなどこかちょっと変で、予想もつかない行動をするので、これはどういうことかと首をかしげたり、苦笑やら爆笑やらで忙しい。とてもおもしろかったんだけど、どう説明すればいいのかさっぱりわからない。
突然「インターナショナル」をアカペラでフルコーラス歌い出すおっさん。(今どき「インターナショナル」聞かされるなんて思わなかった)
サウナで太鼓腹叩いて、この曲名を当てろ、と変なクイズを出すおっさん。
突然飛んでくるUFO。おもちゃかと思ったら、本物だった。
というように、わけのわからないエピソードの連続なんだけど、でも結局はシュー・ガンとジャン・ジーヨン2人のラブストーリーだったんだなあと思う。(レズビアンカップルの方もなかなか興味深い展開だったけど)
予告編から可愛いかった冴えないおっさんのジャン・ジーヨンが、予告編以上に可愛くてたまらなかった。初心でもの慣れない恋する乙女。でも自分の尊厳はしっかり守る気概もある。シュー・ガンもそこに惚れた。
おっさんだろうと人を恋する気持ちは真剣で美しい。同性だろうと異性だろうと若かろうと年取っていようと。
なかなか出会わず、出会ってからも行き違いがあったりして、終盤でようやく恋人同士になれた2人の寄り添う姿に、ああ、よかったなあ、幸せになってねと、温かい気持ちになる。
「シュー・ガン、絶望するな」
「ジャン・ジーヨン、絶望するな」
「俺がいる」
この会話がいい。ちょっと涙出そうになった。
チラシによると「かの国では上映不可能な“タブー”に軽やかに挑んだ、オフビートで異色のラブストーリー」らしい。なるほど。
『木挽き町のあだ討ち』
永井紗耶子/著 新潮文庫 2025年
2023年上半期の第169回直木賞受賞作品。興味はあったのでいつか読もうと思っていた作品。ちょうど映画が公開され感想もぼちぼち上がってきている今、あまり映画に引きずられないうちにと、電子書籍を購入して読んだ。とても心地よい作品で、一気に最後まで読んだ。
2年前の雪の夜、芝居小屋の側で衆人の見守る中果たされた仇討ち。その顛末を知るために、1人の侍が芝居小屋の関係者を訪れた。侍は仇討ちを果たした菊之助の縁者で、関係者からそれぞれ話を聞いていく。
各章ごとに語り手が変わり、最初は通りいっぺんの仇討ちの話が、関係者自身の来し方を語る部分になると俄然おもしろくなる。芝居小屋へと流れて来たそれぞれの人生が、ひとつの物語として読み応えがあった。それは菊之助がこの場所で得た思いと決意を、侍と読者が追体験して知ることになる。
芝居とそれを支える裏方の説明が、それぞれの章で語られるのもよかった。木戸芸者、殺陣師、女形で衣装係、小道具係、戯作者、芝居はこれら裏方が揃ってこそ成り立つ。
第四幕(章ではなく幕となってるのも芝居らしい)で、ああ、そうかとだいたいのカラクリが見えてきた。そこから終幕まで一気に駆け抜けて、芝居のように大団円で終わるのが気持ち良かった。
印象に残ったこと。第三幕女形の二代目吉澤ほたるが、初代ほたるの言葉「世間ってのは、階段みたいになっていて、上の連中は下の連中を見下ろしている」を引いて、その階段の最上層にいる菊之助たち武家の、武家である故の枷に囚われる苦しみを思いやるところ。それは最下層とされる芝居関係者の自分たちも同じ、人間は等しいのだと気づく。人から見下ろされる彼らの方が、優しさと理を知っている。