『光のうつしえ』

『光のうつしえ』

『光のうつしえ』朽木祥 講談社 2013年

英訳版『Soul Lanterns』2021年

昨日の広島平和記念式典の石破首相の挨拶で正田篠枝さんの短歌が引用された。

この短歌は朽木祥『光のうつしえ』で初めて知った。

『光のうつしえ』は原爆投下から25年後の中学生たちが、当時のことを実際に経験した人たちから聞かされ、原爆について知っていく話。その中のエピソードの一つにあの短歌の話があった。
広島の子どもたちであっても、自分の親の世代から常に聞かされていたわけではない。むしろ25年たって初めて話す気になった方たちもいる。またこの時代は当事者の方たちが存命だったので直接話が聞けた。早すぎても遅すぎても聞けなかった。「黒川の女たち」の時も思ったけど、よく間に合ってくれたと思う。

当事者のその次の世代の子どもたちを通して描かれるので、読者である子どもたちにとってより身近に感じられるのではないだろうか。
当事者の声を直接聞き、それを今度は次の世代へ語っていかなくてはならない。そうやって語り継いでいくことが大切なのだ。
だからこの作品が英訳され、世界の子どもたちに届けられたことは本当によかった。そこからまた次の世代につながっていきますように、心から祈る。英語版に加えてドイツ語版も刊行されるという。もっともっと世界に広まりますように。

作品の中の短歌
「太き骨は先生ならむそのそばに小さきあたまの骨集まれり」

英訳版での短歌
ーThe bigger bones must be a teacher’s; small skulls gathered aroundー
39°C

39°C

予報では今日の最高気温は38°Cだったのに、午後2時には39°Cになっていた。今は少し下がったけどまだ38°Cある。窓開けたら息苦しくなるほど。
まだ午前中に、伸びていた公園の草を少し切り払ったけど、たった5分ほどでも顔が真っ赤になった。危ない危ない。昨年はこれでしばらく動けなくなったんだった。日差しのある時は、たとえ数分でも外作業は厳禁。
今夏初のセミファイナル

今夏初のセミファイナル

蝉が仰向けに転がっていて、もう死んでると思って捨てようと触ったら突然動き出す。何度これに驚かされてきたことか。この状態を「セミファイナル」と呼んでるのをネットで見てから、うちもこの言葉を使っている。玄関先にいる場合は箒で掃き出せばいいのだが、困るのはベランダでひっくり返っている時。三方壁なので掃き出すのは無理。棒でつついて、うまくすれば飛び立ってくれるけど、ジジジと音は立てるがちょっと動くだけで飛ばない場合もある。そのまま完全にお亡くなりになるのを待つか、手で掴んで捨てるしかない。

今朝この夏初めてのセミファイナルにベランダで遭遇した。つついたらジジジと鳴いたのでまだ生きてる。でも飛ぶ元気はないみたい。仕方なくテッシュを被せて掴んで外にほうり投げたら、隣接する公園の草むらに落ちていった。

毎年恒例だけど、なんでわざわざあんな逃げ場のないところに落ちているのだろう?


庭のトレニア。今年は花壇に夏の花を植える余裕がなかったけど、雑草だらけの中に昨年のこぼれ種からひっそり咲いていた。
戸籍の振り仮名

戸籍の振り仮名

本籍地の市役所から「戸籍に記載される振り仮名の通知書」が届いた。

「氏の振り仮名」と、わたしと息子と娘の3人の「名の振り仮名」が記載されていて、振り仮名が誤っている場合には届出が必要。届出しなければこの通知書の振り仮名がそのまま記載される。

うちの場合は誤りなしなので、放っておけばいい。3人ともごく一般的な読みかたなので問題ない。夫だけはちょっと特殊な読みかたをするが、死亡しているので夫の名前の記載はない。

しかし戸籍筆頭者は夫なので、夫の名前にも振り仮名は必要じゃないかと思うのだが。そもそも亡くなって除籍になってる人がずっと戸籍筆頭者というのも変な制度だな。母も義母も配偶者が亡くなってから何十年も戸籍筆頭者はそれぞれの夫の名前のままだった。戸籍筆頭者って単にインデックスなんだな。

振り仮名の届出が可能な人が、「名」の場合にはそれぞれで届出可能だけど、「氏」の場合はわたしだけが可能になってる。ここは本来戸籍筆頭者だけが可能で、亡くなって除籍になってる場合には配偶者になるという。ふーん。
映画「黒川の女たち」

映画「黒川の女たち」

映画「黒川の女たち」2025年

7/25 OttOにて鑑賞

あまりに重く苦しくて、何と言えばいいのかうまく言葉に出来ない。時間かけてもどうしてもまとめられなかったが、思いつくまま書いてみた。


戦前の日本が実質統治していた満州国。国策により満州に渡った多くの開拓団が、終戦時の混乱で日本に引き上げるさいに大変苦労し、女性たちを人身御供のように差し出して難を逃れた話は、中国残留孤児の話とともに、大雑把な知識は持っていた。
しかしあらためて満州国の成立過程から、治安維持と有事の際の拠点とするために開拓団を必要とした事を知って驚いた。完全に軍事目的だったとは。貧しい農村の人々の救済のためだと思っていた。(それだって勝手に他国の土地に傀儡国家を作って、勝手に入植するなんて非人道的なことだったけれど) 本当に上っ面の知識だったと思い知らされた。

その目的を知らされず送りこまれた開拓団。終戦時に自分たちを守ってくれるはずの関東軍から見捨てられ、集団自決にまで追い込まれたり、様々な困難に襲われた人々。その中で黒川開拓団はソ連軍を頼り、見返りに女性たちを犠牲にした。仲間のためにと耐え抜きやっとの思いで帰国した彼女たちを待っていたのが、誹謗中傷だったなんて酷すぎる。「帰国してからの方が悲しかった」などという言葉を、彼女たちに言わせるなんて。

本来なら彼女たちをその誹謗中傷から守らなければならないはずなのに、「可哀想だから」と言って、事実をなかったことにした男性たち。男性の都合で犠牲を強いておきながら、感謝どころか彼女たちを「汚れたもの」と貶める。一応罪の意識はあるのだろうけど、だからこそ保身に走る。証言を封じられ、身内から酷い言葉をかけられ、やっと戻れた故郷を離れた人もいる。

彼女たちの証言を聞くこと残すことが出来たのは、当事者の女性たちの強い思いはもちろんだけど、その体制を整えようと奔走した人たちがいたから。当時の開拓団の世代ではなく、その次の世代が頑張ってくれたからだ。そしてここまで時が経たないと無理だったのかとも思う。映画に登場してもう今は故人となった人もいる。本当にギリギリ間に合った。

証言する方たちは決して声を荒らげず、自分の言葉でしっかりと話す。辛く苦しく悲しい過去を背負ってなお強くいられる。この強さと他者への優しさは何だろう。同じ経験をした女性たちがずっと連絡を取り合い、時には集まり、喜びも悲しみも分かち合ってきたことが大きいのかも。膨大な手紙の束がそれを物語っている。1人では耐えられなくても、支えあい寄り添う人がいれば生きていける。理解ある家族の存在も大きい。孫から尊敬していると言われて嬉しそうだった。
沈黙を貫くことも自分を守る手段である。しかし証言したことで、人としての尊厳を取り戻すことも出来たのではないか。顔を隠して証言していた人が、後に晴れ晴れとした顔を出してくれたのが印象的だった。

想像を絶する証言の前に立ちすくんでしまうが、忘れられないものをいくつか。

「渡満した時、父親が先に行って家を用意しておくというので、新しい家が建っていると思ったのに、そこは以前満人(この言い方は当時としては仕方ない)が住んでいた家だった。国民服を着て帽子を被った父の姿を見たら満人たちは逃げて行った。それだけ恐れられていた」

ーはっきり自覚していたわけではないけど、自分たちが本来の持ち主から家も農地も奪ったのだという事実は、わかっていたんだなと思った。

「そこでは学校のようなものがあって、一年ほど色々(勉強とか)教えてもらった。その時の先生(男性)から、戦争に敗けたら女は大変な目に合う。覚悟しておくように。と言われた」

ーその先生はどういうつもりでそんな事を言ったのか?敗戦を意識していたのか?どういう覚悟なのか?性接待の可能性についてか?自決の覚悟か?

「全員が並べて寝かされた。その間みんなで手をつなぎあって、お母さんお母さんと泣いていた。ソ連兵は背中に銃を背負ったままだったから、怖くてたまらなかった。」

ーなんという扱いか。同じ部屋で手をつなげる距離に並んで寝かされて、一斉に強姦されていたという事。銃が暴発したらという恐怖もあった。

「お姉さんたちのためにお風呂をわかしていた」

ーまだ年少で選ばれなかった少女が、母親から風呂を沸かすように言われ、自分が入るためかと思ったらそうではなかった。女性たちのための風呂だった。その時どこまでわかっていたのか、でも何か嫌なことをさせられていることは感じていたのだろう。この少女が女性たちと長年交流を重ね支え続けている。

「わたしは洗浄係だった。妊娠や病気を避けるために、女性たちの体を冷たい水で洗う。地獄だった」

ーあまりに生々しくて声も出ない。それでも病気で亡くなる人がいたのだ。妊娠した人がいなかったのだけが救い。

犠牲者の息子さんの言葉。
「母の書いた文章の肝心な部分が断りもなく勝手に削られていた」

ー何の文章か聞き逃したのだけど、どうしてもあの事実をなかったことにしたかった人たちがいたのだと分かる。

「黒川開拓団は日本の縮図。あの戦争の総括を誰もしていない」

ー日本が抱えるすべての問題の根源はここにあると思う。きちんと総括して、後世に反省と教訓を残していかなくてはならない。


1982年に黒川開拓団引揚者慰霊碑に、「乙女の碑」が建てられたが、何の為の碑かという説明はなかった。その碑文を建てようと奔走したのが、遺族会四代目会長。彼の父親が開拓団員だった。戦後生まれの世代になって、ようやく女性たちの存在を公にする動きが見られたのだ。何度も何度も碑文を推敲する姿、女性たちを訪ねて真剣に話を聞く姿から、誠実な人柄がみてとれる。完成した碑文の除幕式で、涙ぐみ謝罪する彼に「あなたのせいじゃない」と声がかかる。彼個人に責任はない。しかし遺族会会長という立場からの謝罪だった。こんなに真摯に自分の職責と向きあえるなんて、上に立つ人にはこうあってほしい。


多くの人に見てもらいたい映画。そしてしっかり次の世代に語り継いでいかなければならないと思った。映画の中である学校の授業風景があったけど、あの授業を全ての学校でするべきだ。あの戦争について被害だけでなく、きちんと加害についても教えていた。わたしはこの年になるまで知らずにいたけれど、これからの人たちにはしっかりと教えてほしいと思う。
映画「トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦」

映画「トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦」

映画「トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦」2024年 香港

7/28 OttOにて鑑賞

まさかOttOでやってくれるなんて!公開直後からタイムラインで大評判だったので気になっていた。公開から半年以上たつのに土日は満席、平日でもほぼ満席。そしてパンフレットは売り切れだった。

なるほど評判通りおもしろかった。冒頭からアクションの連続で、息つく暇もない。動体視力が追いつかなくて、目まぐるしくて疲れてしまったけど。暴力場面が多いけど(というかそればかりだけど)それほどグロくなくてカラッとしていたので助かった。

九龍城砦の過去の説明が冒頭にあったけど、まず人の名前と顔が分からず、考えているうちにあれよあれよと話が進んでいく。よくわからないながらもそのうちだんだん登場人物と話の展開が何となくわかってくるので、そこは重要ではないのだろう。

一応主人公はいるけど(陳洛軍=チャン・ロッグワン)、その他の人々がみんなキャラが濃くて、どちらかというと群像劇。わたしは割と群像劇は好きだし、チャンが九龍城砦に入ってから仲間と居場所を獲得していき、協力して敵に立ち向かうという、少年漫画のような展開がおもしろかった。

とにかく迷路のような九龍城砦の中を人が縦横無尽に駆け巡り、ぶっ飛び、殴る蹴る斬る刺す、物も建物も壊れまくる。よくみんなそれで生きてるな、みなさん不死身ですか?いや、1人本当に不死身なヤツいたけど、あんなのアリ?

字幕で名前が出るけど目で追ってるとつい日本の漢字読みしちゃって、耳からの音と一致させるのになかなか慣れなかった。だから娘と登場人物について話すときは「信一(ソンヤッ)」は「シンイチ」「十二少(サッブイー)」は「ジュウニ」、「四仔(セイジャイ)」は「ヨンコ」と呼んでしまう。

映画見る前から予告編などで、タバコくわえたイケおじがいるなと思ってたけど、その龍兄貴がもうかっこ良くて、腕力だけでなく情に篤く、九龍城砦の秩序を保ち住民の生活を守っている姿に、惚れ惚れしました。

アクションの派手さは目を引くけど、人間ドラマの方はいまいちよくわからない部分があった。冒頭で龍が戦っていた陳占は、雷震東の右腕と説明されていたが、その雷震占はどうなったのか?敵対している龍と陳なのに、過去シーンでは深い絆がありそうなのはなぜか?説明されてたかもしれないが、字幕追っててもよく理解出来なかった。人物の見分けがようやくつくようになったので、もう一度見ればわかるかもしれない。

しかし女性の出番がほとんどない映画だった。いっそ清々しいほどの男だけの話だった。
訃報

訃報

高校時代の部活の顧問の先生が亡くなられたとメールがきた。もう90歳を越えていられたから、早いとは言えないけど、まだまだお元気だと思っていた。毎年部活のOBG会報の余白に手書きでちょこっとメモを書いておられて、その字を見ると「先生今年も元気だなぁ」と思っていた。謹んでご冥福を祈ります。

メールには先生の思い出話や写真があったら堤出してほしい、と募集もしていた。
アルバムをひっくり返して写真を探したけど、先生が写ってるのは2枚しかないし、どちらも提出出来るクオリティではない。でも探すついでに昔の写真をいろいろ眺めてしまい、懐かしさにひたってしまった。

庭のアガパンサスももうほとんど散ってしまった。写真はまだまだ元気に咲いていた頃。
『森のユキヒョウ』

『森のユキヒョウ』

『森のユキヒョウ』
C.C.ハリントン・作 中野怜奈・訳 岩波書店 STAMP BOOKS 2025年

吃音のある少女マギー。人と話す時にはどうしても言葉が出てこない。その苦しみは教師にも級友にも父親にさえ理解されず、かえって問題児扱いされ転校を繰り返している。とうとう矯正施設へ送られそうになるが、コーンウォールの母方の祖父のところでしばらく過ごす事になる。祖父の暮らす村には太古の森が広がっていた。その森でマギーは自分勝手な飼い主から捨てられていた、ユキヒョウの子ランパスに出会う。人間とは上手く話せないが、動物とならスムーズに言葉が出てくるマギーは、ランパスと次第に心を通わせていく。しかし森を伐採しようとする村の有力者と、ランパスを駆除しようとする村人たちの手が彼らに迫ってくる。

マギーに対する周囲の理解のなさには怒りを覚える。まだ障がいに対する理解も支援も行き届いていない時代(1960年代)のせいとはいえ、あまりにひどい。必死で言葉を出そうとしても上手くいかず、非難と嘲笑から居たたまれず教室から逃げ出せば、学校から問題行動と受け取られ矯正施設をすすめられる。母親を除いて誰も彼女の内面を知ろうともしない。
上手く話せないだけで彼女には知性も感情もある。これはろう者が口話でなく手話で話す姿を見て、時として知能が遅れていると見られることにも通じる。だから豊かな自然の中、優しい祖父のもとでしばらく過ごすことになった時は、彼女のために嬉しかった。

また今の時代にも通じるけれど、きちんとした飼育環境も覚悟もないまま、無責任にも飼い始めた大型動物を、飼育に困ると平気で捨ててしまう人間の勝手さにも腹が立つ。ユキヒョウのランパスもそうやって本来生息するはずのない場所に、たった一匹で捨てられてしまった。

そんな社会の犠牲者ともいえる彼らが出会った森には不思議な力があった。太古の森の木に身をゆだねていたマギーは、木からのメッセージを受け取る。この場面は神秘的で素敵だった。
 「自分にやさしくしてあげて
   人として生きるのは大変なことだから」
言葉としてはっきり聞こえたわけではないが、それはマギーの心を軽くしてくれた。

どうしても人とは上手く話せないマギーだったが、ランパスと森を守るために拙いながらも村人の前で主張する。自分のことではなく、誰かを何かを、大切なもののためなら勇気を出して話すことができた。決してスラスラ言葉が出てきたわけではないが、ゆっくりつかえながらも懸命に話す姿に、父親もようやく理解を示してくれた。

自然の描写が素晴らしく、この太古の森のやさしいおおらかさがマギーを包み込んで、傷ついた心を癒し生きていく勇気と力を与えてくれたのだろう。森や木にはそういう力がたしかにあると思う。

エピローグで、成長し自然保護活動に長年携わってきたマギーの姿が見られる。ランパスのその後も語られる。吃音はあるが、たしかな言葉で聴衆に向かって話すマギー。
「自分の言葉には力があると、マギーは知っていた。」という記述に胸が熱くなる。

映画「シンシン/SING SING」

映画「シンシン/SING SING」2023年 アメリカ
6/27 OttOにて鑑賞

ニューヨークのシンシン刑務所で収監者たちが参加する演劇プログラムがある。「芸術を通じての更生(RTA)」を目指し、収監者たちが創造的な表現を通じて希望や変革を見出すプログラムだという。実際にこのプログラムに参加した元収監者たちの再犯率は3%以下であるという。刑務所での生活というと体操とか労働とか職業訓練しか思い浮かばなかったので、演劇プログラムがあることが驚きだった。

映画はこのプログラムの参加者を中心に、刑務所施設や収監者たちの生活を描き出す。刑務所の各個室が割と広くて私物がいっぱいあり、隣の部屋とは円窓越しに会話も出来る。意外と自由なのに驚いた。
また出演者の多くが元収監者で、実際にこのプログラムの参加者だったという。刑務所のあり方を考えさせられた。懲らしめのために閉じ込めるだけでなく、再犯を防ぐための更生プログラムが大切なのだと感じた。この試みは日本ではなされていないのだろうか。

練習では脚本読みだけでなく、身体を使ったり目を閉じて想像したり、さまざまな課題をこなしている。それらを見ていると、これは演劇を通して自分を見つめ直すプログラムだなと感じた。幸せだった日々の思い出や、大好きな家族を悲しませてしまった後悔など、とても素直に自分の内面を吐露している。もちろん最初からみんながすんなり馴染んだわけではないだろう。そのことは新しく参加した暴れ者のデイヴァイン・アイ(最初は態度が悪かった)が、回を重ねて変化してくる様子でわかる。

リーダー格のディヴァイン・Gは、プログラムの立ち上げから参加しているようで、自分で脚本も書き仲間たちの面倒見も良い。どうも彼は無実の罪で服役しているらしく、再審要求?(ここは正確なことは分からなかった)もしている。そしてディヴァイン・アイの仮釈放の申請の手助けもしてやり、その甲斐あって彼の仮釈放が決まる。

それと反対に彼自身の再審要求(あるいは仮釈放?)は却下される。この時の審査官らしき人たちとのやりとりが酷かった。審査官は最初からすごく感じ悪かった。彼が申請しているせいで「業務がとても複雑で忙しくなってるの知ってます?」って、え?それをきちんと精査するのがあなたたちの仕事じゃないの? 犯罪者のくせにおとなしくしてればいいものを、こちらの仕事を増やしやがって、と言わんばかり。そして彼が自分の誇りである演劇プログラムのことを勢いこんで話し出すと、途中で遮って彼を傷つける言葉を吐く。気の毒に彼は誇りを傷つけられ、丁寧に作成した提出書類を突き返され、希望を打ち砕かれる。自暴自棄になっても仕方ない。
そんな彼を救ったのがディヴァイン・アイ。救われた彼が今度は彼の救いになる。このプログラムがあって、仲間たちがいてよかった。

最後に実際の演劇上演の様子が映しだされたり、出演者の紹介の「as himself 」の多さに驚いた。あの人もこの人も元収監者だったのか。ディヴァイン・アイもそうだった。
ディヴァイン・Gとマイク・マイクは俳優が演じていたけど、他の収監者たちと違和感なくとけ込んでいた。
演出家も俳優だったけど、この人が高圧的なところもなく、収監者たちとの信頼関係もあり、穏やかでとても素敵な人だった。パンフレット読むと、この俳優さんは耳の不自由な両親に育てられアメリカ手話に堪能とのこと。ロサンゼルスの法廷で40年も手話通訳してきたので、刑務所でどんな扱いを受けるか知っていたという。これは演出なのだろうけど、収監者への接し方が偏見のない自然なものだったのは、そのせいもあるのかと思った。
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