『バルバラ異界』全4巻
萩尾望都/著 小学館フラワーズコミックス 2003年〜2005年
「月刊フラワーズ」2002年9月号から2005年8月号までの連載中ずっと読んでいた。(当時は田村由美『7SEEDS』も連載中だった)
もう20年も前だったのかと驚く。なぜまた引っ張り出してきたかというと、娘が映画「鯨が消えた入り江」を見てきて、「銀の三角…いや、バルバラ異界だ〜!」と騒ぐので、「は?」となったから。わたしは「鯨〜」は見てないので何のこっちゃ?なのだが、それであらためて懐かしくなって読んでみた。
萩尾望都、わかっていたけどやっぱりこの人すごいなあ。第1話と第2話のギャップに、当時もうわあとなったっけ。完結した時はそのストーリー展開のダイナミックさに感心したものだった。
それが今読むと、ストーリーよりもキリヤへの愛おしさが何よりもまさって、切なくて涙が出た。人好きはするけれど親として未熟な父親と、明らかにメンタル病んでる母親。このどこにも居場所のなさを抱えた孤独な子どもを、どうすれば癒してやれるのだろう。ようやく時夫との絆がぎこちないながらも結ばれてきた時に、あの23話のラスト。くるりと周った世界はもう戻らない。その喪失感に打ちのめされる。
青羽の言葉「未来はまだやって来ていないので、何度でもやり直せる。でも過去はもう確定してしまったので、変えられない」
そして「夢」という形で変えても、反転した世界ではあのキリヤとの時間はかえらない。
だが青羽の言葉に未来への希望も感じた。そうなのだ。過去の過ちはもう取り戻せないが、未来はある。これからの世界を誤りのないようにしていくことは出来る。わたしたちには未来への責任があるのだ。
「キリヤ 青羽 子どもたち 未来はきみらを愛しているか?」
ラストページのこの言葉を肝に銘じよう。すべての子どもが愛される世界にしていくことが、わたしたちの使命なのだ。
『あの人と、あのとき、食べた。』
椹野道流/著 二見書房 2025年
著者の作品をラノベで読んでいたのはもう25年くらい前だけど、コロナ禍の頃SNSとwebのエッセイを知り、特にエッセイはコロナに感染して寝込んでいた頃楽しみに読んでいた。
この本の内容も、ちょくちょくエッセイで読んでいたのと重複するところもある。でもそれを「誰かと何かを食べる」という括りでまとめると、訴えかける思いがさらに強くなる気がする。「食」にまつわる思い出は、それだけ人に懐かしさを与えるようだ。読んでいて色々思い出してきた。
著者は関西在住なので、わたしにとって懐かしい言葉が出てくる。
「かしわ」
鶏肉のことをこう呼ぶ。鶏肉は「かしわ屋」で買い、普通の肉屋では売ってなかった。そういえば豚肉ってあまり食卓に上がらなかったな。肉といえば牛肉だったから。
「煮る」を「炊く」と言う。
あー懐かしい。「〇〇を煮たもの」を「〇〇の炊いたん」と言ってたなあ。
デパートの大食堂やクリームソーダの思い出など、子ども時代の思い出には共通点がある。
我が家は商売をやっていたので食事の支度は祖母が受け持っていた。だからわたしのいわゆる「おふくろの味」はそのまま祖母の味である。
手際よくのり巻きを巻いていく祖母の手先を、わくわくしながら見ていた思い出。のり巻きを切った時の端っこをもらうのが楽しみだった。
魚料理はいつも鯖の煮付け。当日よりも翌日の煮凝りが美味しかった。
油揚げにひき肉、にんじん、椎茸、シラタキを詰めてかんぴょうで口を縛り、その形から巾着と呼んでいた料理は、わたしの1番の好物で、これも翌日のほうが味が沁みて美味しかった。祖母が具材を詰める時は、見るだけでなく手伝いも喜んでしていた。わたしが最初に料理らしい料理をしたのは、この巾着が初めてだった。具材を混ぜるのを忘れてそれぞれの具材ごとに固まってしまい、食べる時に家族に笑われたけど。
著者のエッセイでは、家を建てる話を楽しみに待っているのだが、こちらのほうが先に出てしまった。これはこれで楽しく読めた。
『かみなりせんにょといなづませんにょ』
ハン・ガン/ぶん チン・チラム/え さいとう まりこ/やく 小峰書店 2025年
ハン・ガンの絵本というので読んでみた。
決められた髪型と衣装にきゅうくつさを感じる二人のチビ仙女。それぞれに似合った髪型に変え、動きやすい衣装を着て生き生きする姿が可愛い。やんちゃな子どもをただ叱らず、ふさわしい仕事を与えてくれるおばあちゃん仙女がいい。絵も可愛い。
原作の出版が2007年なので、日本での刊行はハン・ガンのノーベル文学賞受賞がきっかけなのだろう。
ハン・ガンの作品はまだ『すべての、白いものたちの』しか読んでないけど、いつか必ず気合い入れてから読みたいと思っている。
昨夜寝る前にニュースアプリで妙義山の山林火災を知った。周辺の人たちは無事らしいけどさぞ心配だろうと案じていた。
そして今朝は、昨夜午後11時過ぎに北海道から東北に地震があり、青森県で震度6強の揺れを観測したというニュースを知った。
津波警報は解除されたけどまだまだ不安だろう思う。住民のみなさんが無事であることを祈ります。
娘は起きていてクローゼットの扉が揺れたので地震だとわかり、その後震源地が東北だということに驚いていた。もっと近いと思ったらしい。わたしはその頃は寝込んでいたので何も気づかなかった。
以前は朝起きると習慣でTVのNHK をつけて時計代わりにしていたので、ニュースにも気づけたが、最近はTVを見なくなり夜7時のニュースくらいしか見ていなかった。一通り朝の家事を終えてからニュースアプリを確認していたが、やっぱり朝すぐに確認したほうが情報に遅れないですむなと思った。
今日は自治会の行事で公園清掃の日だった。先月からカレンダーに印を付けておいたし、先週まではしっかり覚えていたはずなのに、今朝ころっと忘れていた。やや寝不足だったので、朝食後ちょっと寝ようかと布団に転がっていて、突然思い出し布団から飛び起きた。危ない危ない。集合時間までにはまだ1時間近くあったので、焦ることなく余裕を持って準備できた。
夏とは違って雑草もそれほど伸びていないけど、落ち葉が結構あり、剪定した植栽の枝を集める作業がある。それでも大人数でやるので短時間で終わった。しかし我が家との境目の部分だけは仕方なくわたしが一人でチマチマとやっていた。
ちょっとそれで疲れたのか、その後どうも体調がすぐれず、胃も気持ち悪くなって転がっていた。まったく、これだけで具合悪くなるのかと情けなくなってしまう。体力もだけど気力がない。これでは年末の大掃除もおぼつかない。
自治会の解散の時、ある会員が自宅でとれたスダチを配っていて、ありがたく頂戴した。黄色く色付いていたので、酸味があまり強くなさそう。
昨日は今年最後の満月だった。夜に外に出てみたら、夜空に煌々と輝く光が眩しくて他の星も見えないほどだった。しばらくして目が慣れてくると少しずつ星が見えてきた。
月の出は16:24
今朝西の空にまだ月が残っていた。白い月も綺麗だな。月の入りは08:01
月の入り月の出は毎日約1時間ずつ遅くなっていく。次の満月は来年1月3日。
業者さんからの連絡を待ってる間にふと思いついて、コンセントを抜いてしばらく置いて再び差し込み、電源入れたらちゃんと動いた!その後何時間か経っても止まらずしっかり作動している。
やれやれこれで直ったかな?と安心して業者さんからの電話に出た。ところが今の復調はあくまでも一時的な可能性も高く、また繰り返すようならきちんとメーカーに点検してもらったほうがいいとのこと。原因の特定は結構難しく、それがわかれば部品の交換で直せるが、最悪の場合は熱交換器の交換になるかもしれず、かなり高額になりそうとのこと。うわ〜ん。せっかくクリーニングしたばかりなのに〜。出来ればこのまま冬を乗り切ってくれ〜!
先日エアコンのクリーニングを頼んだ。2年前に初めて業者に頼んで、それまで一度もやったことなかったので、真っ黒い洗浄水をみて慄いた。その時にだいたい2年ぐらいでまたやった方がいいと言われていた。そんな短期間で必要なのかなあと思っていたが、1番頻繁に使うリビングのエアコンの送風口に黒いカビが見えてきたので、頼むことにした。
リビング以外のエアコンは汚れも想定内で、これ以上たつとカビが急速に増殖するので、ちょうどいいタイミングだったらしい。
問題はリビングでこの間もそうだったけど、台所の近くなのと、隣が公園という位置にあるので、汚れが1番凄かった。このエアコンだけは2年より早くクリーニングしたほうが良さそうだ。
クリーニングの時期としては、暖房より冷房を使用する時にカビが発生するので、冷房の使用が終わり暖房を使用する前のタイミングがいいとのこと。なるほど。リビングだけは来年の秋に頼んだほうが良さそう。出費は痛いけど健康にはかえられない。
クリーニングしてさっぱりしたエアコンで快適に冬を過ごそう、と思っていたのに、よりによってこの冬1番寒いこの朝に、リビングのエアコンが止まってしまった。最初は快調に動いていたのに気がついたら止まっていて、何やらランプが点滅している。以前にも同じような状態になって、その時は電器店に電話して指示を受け、すぐに直った。今回はクリーニングの直後なので、その業者さんに連絡した。すぐには来られないが、急に寒くなったこととエアコンの温度設定が低いのが関係してるかもという。とりあえず電源切って連絡を待つことになった。今は隣の和室のエアコンで寒さをしのいでいる。
このエアコンは和室のより古いし、1番使用時間が長いし、設置場所の環境も悪いし、家のリフォームの際に取り外してまた取り付けてという作業も経ている。いろいろ過酷な環境に置かれている。買ってから7年経ってるけど、以前のはクリーニングもしないで17年使っていた。いろいろ機能がふえた分、耐久性が低下しているのかもしれない。シンプルなのが懐かしい。
「ジョニーは戦場へ行った」(JONNY GOT HIS GUN)
ダルトン・トランボ監督 1971年 アメリカ映画 日本公開1973年
PPMの「虹と共に消えた恋」の中の「Jonny’s gone for a soldier 」の歌詞から連想したのが、この映画「ジョニーは戦場へ行った」
公開時見に行ったのだが、映画館は満席で立ち見だった。当時まだ作家でなくアナウンサーだった落合恵子が、ラジオで「見た後しばらく席を立てなかった」と言っていたが、たしかにすごい衝撃作だった。
今回あらためて調べたら映画の原題は
「JONNY GOT HIS GUN」であの歌とは違い、主人公の名前もジョニーではなくジョーだった。すっかり忘れていた。
原作は1939年にダルトン・トランボが発表した反戦小説で、タイトルは第一次世界大戦時の志願兵募集の宣伝文句だったという。
トランボは赤狩りで映画界から追放されていたが、復帰後に本作の映画を完成させたという。原作発表からこれほど時間が経ってからの映画化だったのは、そういうわけだったのか。公開当時はそこまで知らなかった。
DVDを購入していたが未見のまま。でも強烈に覚えている場面があるので、思い出すまま書いてみる。
50年前に1度見ただけなので、忘れていることも多く間違いはあるだろう。記憶の捏造もあるかもしれないけど、自分にとっていまだに忘れられない事を書きたい。
以下ネタバレあり。
ジョーは第一次大戦の戦場での負傷で目、鼻、口、耳、四肢を失い、首と頭だけが動き触覚だけが残る。それでも軍の実験材料として生かされていた。誰も気づいていないが、彼には意識はあり考える事も出来る。それだけに病院で自分の状況を悟ったときの絶望感が凄まじい。
この彼の病院内での現実がモノクロで、彼の出征前の思い出の場面がカラーで表される。重苦しいモノクロ画面と、生き生きしたカラー画面の美しさとの対比がより残酷さを感じさせた。
印象的だったのが、婦長さんだったか修道女の服を着た女性が、彼の病室が暗い事を気の毒がり、窓のカーテンを開けて光を取り入れてくれた時のこと。光を浴びた彼が、最初は何かわからず、でも体が温かくなってきた事で、これは日の光だ!と気づき歓喜する。太陽だ!光だ!その瞬間画面がカラーに変わり、彼が川の中から真上に飛び出し、水に濡れた顔を空に向けて歓喜の表情を見せる画面が、スローで流れる。ああ、これほど嬉しいのか!と見ていてこちらも涙が出てきた。忘れられない場面だ。
朝にカーテンを開けて夜に閉める。体に日があたり温かくなり、やがて冷えて1日が終わる。また温かさを感じて朝が来た事がわかる。体に感じる日の光で、彼は1日の経過を知る事が出来るようになった。
そして新しく担当になった親切な看護婦(当時)が、クリスマスに彼の腹部に指で「merry Christmas 」と綴る。それにより今日がクリスマスだと知った彼は、それ以降日光による1日の経過と合わせて、今日が何月何日かわかるようになる。
やがて彼は外部との連絡手段に、モールス信号を使うことを思いつく。僅かに動く首と頭を枕に打ちつけて必死にモールス信号を発する。最初は気づかれなかったが、あの親切な看護婦が何かを感じ、上司に伝える。最初は単に体の痙攣だと診断されて相手にされないが、彼女の再度の訴えに病室にやって来た軍人が、ついにモールス信号だと気づく。「何が望みだ?」と額に指でモールス信号で問いかけられ、彼は「自分を見せ物にしろ」と訴える。「それは出来ない」とこたえると「では殺してくれ」と頼む。それも出来ないと断られる。
軍人たちが外へ出てしまうと、彼の意を汲んだ看護婦が彼に繋がれた何らかの管を外す(ここは正確には覚えていない)。それに気づいた彼は彼女に感謝する。しかし病室へ入って来た医師(あるいは軍人か)が間一髪彼の命を救う。看護師は追い出され、彼には鎮静剤が打たれ、窓のカーテンは閉められ、再び彼は闇の中に閉じ込められる。
カーテンは二度と開けられないだろう。あの看護婦は担当を外されるだろう。誰も彼のことを真剣に考えることはしないだろう。それでも彼は意識を保ったまま生き続けるのだ。「殺してくれ」というメッセージを虚しく送り続けるのだ。
もう何といえばいいのか、当時のわたしの衝撃が今もありありと蘇ってくる。その思い出が強烈すぎてDVDを見るのを躊躇わせている。今年終戦80年企画で4K版で再上映されていたそうだけど、わたしは辛くてたぶん見られない。でも多くの人に見てほしいと思う。
20年ほど前ケルティック・ウーマンの「Siúil A Rún」を初めて聞いた時、PPM(ピーター・ポール&マリー)の「Gone the Rainbow」(虹と共に消えた恋)に似ているなあと思った。中学の頃に聞いた歌で冒頭の「シューシューシュラーリ〜♪」という歌詞が印象的な綺麗な曲だった。歌詞もそのままではないしメロディも少し違うけど、どちらも戦場に行く恋人のことを歌っているらしいし、このアイルランドの民謡をカバーしたんだろうなと思っていた。
最近見つけたブログ記事でこの曲について詳しく書いてあって、その他のブログの記事も参照して、ようやくこの曲の来歴がわかってきた。
元々17世紀にアイルランドで生まれた歌で曲名の意味は「行って、愛しい人よ」。オリジナルの歌詞は不明でさまざまなバリエーションがあるという。
そして18世紀のアメリカ独立戦争の時に、この曲を原曲とする「Johnny Has Gone for a soldier」が歌われていたという。当時スコットランド移民が多くアメリカに渡り、その人たちが持ち込んだスコットランドやアイルランドの民謡がアレンジされて歌われていたらしい。
独立戦争時にスコットランドからの移民が参戦していたことは、以前読書会で取り上げたヴァイニング夫人の『メギー新しい国へ」で知った。この時はレポーターだったのでよく覚えている。
確かに「虹と共に消えた恋」にもこの「Johnny’s gone for a soldier」という歌詞がある。だからPPMの曲は元の「Siúil A Rún」よりも、この「Johnny Has Gone for a soldier」をカバーしたもので、そこに元のアイルランド風味を出すためにあの「シューシュー〜♪」を付け加えたのだろう。あの部分はゲール語っぽい響きはあるけど、正確なゲール語ではなく意味は不明らしい。
今回見つけたブログでは、いろいろな「Siúil A Rún」を紹介していて、PPMや「Jhonny Has Gone for a soldier 」と、その別名の「Buttermilk Hill」という曲もあった。
そして1番オリジナルに近いと思われる形の「Siúil A Rún」も聞いたけど、なるほど素朴というか歌というより祈りのような、魔女が呪文を唱えてるような独特の雰囲気だった。
もう一つ紹介されてたのが、ゲール語で歌うロックバンド Seo Linnの「Siúil A Rún」。
これがめちゃくちゃかっこよくてすっかり気に入ってしまった。ギター、ドラム、キーボード、バンドネオンの演奏しながらの歌声はすごい迫力。ケルティック・ウーマンのとても静かな美しい歌声とは違い、男声で楽器演奏とあいまってとてもパワフル。終盤に演説が入るけど、こちらもゲール語で力強い。
Youtubeで何回も聴いている。
https://www.youtube.com/watch?v=UYHoZQD2rsc