『洪水の前』ー赤川次郎ミステリーの小箱 自由の物語ー

『洪水の前』ー赤川次郎ミステリーの小箱 自由の物語ー

『洪水の前』ー赤川次郎ミステリーの小箱 自由の物語ー
赤川次郎・著 汐文社 2018年

わたしの若い頃、赤川次郎はユーモア青春ミステリーで人気で、ベストセラーを連発していた。でもその他にもホラーや普通のミステリも書いていて、特にホラーは面白かった。彼の本領はこちらではと思っていた。ユーモア小説ではあっても、人間の悪意も容赦ない残酷さも描いていた。そしてわたしが1番好きだったのは、『マリオネットの罠』だった。

久しぶりに赤川次郎の短編集を読んだ。相変わらず読みやすい。これだけすいすい読ませるのはやっぱり上手いと思う。

「愛しい友へ…」
地方都市で工場閉鎖に伴う混乱に翻弄される人々。社会問題、家族間の葛藤、友情が交錯する。ホラーというよりファンタジー。

「終夜運転」
傲慢な元政治家がある夜戦時中にタイムスリップするが、その時出会った娘が戦時中自分の母の同僚だったと知る(戦時中男性の代わりに女性たちが働いていた)。その娘と母親の運命の分かれ目が辛い。

「日の丸あげて」
日の丸を上げることに固執する男性。大勢に迎合する人の怖さと異物を排除しようとする勢いが、あっという間に広がっていく。まるで現代の社会の鏡のようだった。

「洪水の前」
この作品だけ書き下ろし。戦争の始まりに警鐘を告げる作品。最後のページに作者の言いたいことが詰まってる。今、この時代に、心にしっかり留めおきたい

ー武器を取って戦う「戦闘」のずっと前から「戦争」は始まっている。「自分たちだけが正しい」と信じ込み、違う立場の人間を非難する。 そうしながら、人間の中ではすでに戦争が始まっているのだ。戦争は国と国も間で起こる前に、自分たちの心のなかで起きている。そして、一旦それが大きな流れとなると、洪水となって、誰にも止められない勢いで、人を押し流してしまう。ーp246より
『丘の家、夢の家族』

『丘の家、夢の家族』

『丘の家、夢の家族』
キット・ピアソン・作 本多英明・訳 徳間書店 2000年

シングルマザーのリーと2人暮らしの9歳の少女シーオ。未熟な母親のリーからはあまり構ってもらえず、本を読んで「夢の家族」を想像するのが楽しみだった。リーは新しいボーイフレンドと暮らすために、シーオを自分の姉シャロンに預けようとする。邪魔者扱いに傷ついたシーオは、シャロンの家に向かう途中のフェリーで自分の理想とする家族に出会い、その家族の一員になりたいと必死で願う。不思議なことにいつのまにかその願いがかなっている。夢のような幸せな暮らしはしばらく続き、ある日終わる。シーオはまたフェリーに乗っている。何が起きたのか? ちょっとあまりない感じの不思議な話だった。

現実が辛いと夢に逃げ込みたくなるが、普通は夢想するだけで終わってしまう。それが現実になることはない。ところがこの作品ではそれが起こるのだ。その謎は後で解けるのだが、冒頭の幽霊の存在が鍵であることは想像がつく。それでうまく説明がつくかどうかは微妙だけど、充分有りかなと思う。

シーオが現実に戻ったあと、もう一度あの夢の家族と関わるのが意外だった。半ば強引だったけど、それだけシーオにとって手放したくない家族だったのだろう。そして夢とは違う一面を見せる家族たち。たしかに以前はどことなく出来すぎで絵空事っぽかった彼らが、欠点もある普通の人間らしくなっている。これが現実。人は良い面だけでなくいろんな面を持っていること、それが理解できると家族も含めて人との関わりかたも変わってくる。それに気づいたシーオの成長が、リーとの関係も好転させる兆しをみせる。

シーオが次々と読む本の題名にわくわくした。本を読むことで想像の世界を羽ばたかせ、辛い現実からのひとときの救いとなる。この世界のどこにでもシーオはいるのだと思う。
『13枚のピンぼけ写真』

『13枚のピンぼけ写真』

『13枚のピンぼけ写真』
キアラ・カルミナーティ・作 関口英子・訳 古山 拓・絵 岩波書店 2022年

第一次世界大戦がはじまり、北イタリアの村から隣接するオーストリアへ働きに来ていたイオランダの家族は、仕事を失い故郷の村へ帰ってくる。父、兄たちが出征し、母が卑劣な告発で逮捕されたため、妹とともに知人を頼って村を出る。さらにその知人の町から、母方の祖母をたずねて旅をする。戦闘のさなかの旅の困難さ、思いがけない母の過去。13歳の少女イオランダの旅の行程、出会う人々を通して、記録に残されることの少ない女子どもたちの、戦時下での暮らしを描いた物語。

表紙にはちゃんとした写真の絵があるが、本文中に挿絵代わりに載っているのは、何が写っているのかはっきりしないピンぼけ写真の絵。そこに写真の説明文がある。変わった構成の本だ。なぜ「ピンぼけ」なのか。そこがこの作品のテーマだった。

ークローズアップされた被写体にだけピントを合わせ、そのほかのものはすべて背景でぼかしている写真があるけれど、兄さんにとっての戦争とは、そんな写真みたいなものだ。兄さんの目にくっきりと映っているのは、戦闘や司令官、敵兵、それに勇気や名誉だけ。わたしたちはその背景に追いやられ、ピントがぼけ、ほとんど見えないくらいにかすんでいた。 ーp116より

また母親がイオランダに言う言葉がある。
ー「戦争というのはね、イオレ、男の人たちがはじめるものなのに、それによって多くをうしなうのは、女の人たちなの」ーp11よりー

男たちがはじめた戦争で、女や子どもたちの姿は、焦点のあった勇ましい兵士たちの姿の後ろに追いやられピントがぼけてしまっている。歴史の記述や記録からはこぼれ落ちてしまっている。でもそこにこそ、戦時中の暮らしの真実の姿がある。著者はそれを掬い上げ断片を繋ぎ合わせてこの物語を書いたという。
為政者、権力者がはじめた戦争で、傷つくのはいつだって庶民、弱い者だ。それをあらためて思い知らされた。

あと印象的だったこと。町の入り口にある弾薬庫が爆発して多くの被害が出た出来事がある。原因は火のついた煙草をくわえた兵士の不注意。ところがこの事件は新聞には載らなかった。その理由は軍が自分たちの不始末を報道させなかったから。そのうちきっと敵の飛行機が爆弾を落としたとか報道させるよ、自分たちの過ちは絶対認めないから、と住民が言う。ああ、大本営発表か。どこも一緒なんだな。

それとイオランダの母と祖母の諍いの原因。祖母は結婚しても仕事を続けたかったけど、夫から反対され娘の誕生もあって諦めた。そして娘には豊かな生活を与えたいと自分を犠牲にしてきたのに、娘は貧しい労働者と恋に落ちた。大好きな仕事、自立した生活を諦めてまで娘のために頑張ってきたのに…。そんな男は娘の相手として認められない。2人は断絶してしまう。
娘であっても自分の所有物ではない。1人の人間として尊重出来なかったのはよくなかった。だがそれと同時に仕事に対する情熱と自立への渇望には感じ入った。この思いを封じられてさぞ辛かったろうと思う。イオランダを通じて2人のわだかまりが少しは消えて良かった。

この「女性と仕事」については映画「ドマーニ!愛のことづて」を思い出した。娘に対して学校へ行くように進める母親の思い。学問があれば、手に職があれば、結婚で縛られることなく自立できる。同じイタリアの女性のそれぞれの思いに、通じ合うものを感じた。
映画「フォーチュンクッキー」

映画「フォーチュンクッキー」

映画「フォーチュンクッキー」2023年 アメリカ
7/18 OttOにて鑑賞

主人公の不敵な面構えが印象的。
祖国を追われるように逃げ出し、異国での孤独な生活を送る若い女性の姿を、ことさら劇的でなく何でもない日常を積み重ねていく描き方。退屈なようでいて、それがじわじわと心に沁みてきた。わたしたちの生活はその何でもない日常が大切なのだと思い知る。

最初なんの説明もなく主人公の顔のアップで始まる。工場でクッキーにメッセージ(おみくじのようなもの)を包み込む仕事をしている主人公ドニヤ。この工場がいかにも家庭内工業っぽくて、手作業で包んでいる。中に1人だけ高齢の女性だけがパソコンらしきものに向かってキーボードを叩いていて、それがクッキーに入れるメッセージを書いていることに後で気づいた。同僚のジョアンナと少しおしゃべりをする他は黙々と仕事をこなして、家に帰ると1人暮らしらしいアパートで、隣人と少し会話したりする。
彼女はあまり喋らないし笑顔も少なく表情が乏しい。大きな目、きっと結んだ唇、微動だにせずじっと対象を見つめる顔からは、とてつもない意志の強さを感じる。

不眠症を訴えアパートの隣人から精神科の予約を譲ってもらい、精神科医との面談でようやく彼女の背景が分かった。
アフガニスタンで米軍の通訳をしていた彼女は、タリバンの復権後身の安全のためにアメリカにやってきたのだ。身近で戦闘を見聞きした経験や同じ通訳仲間の悲劇など、精神科医からはPTSDを指摘されるが、ただの不眠症だから薬だけほしいという。彼女は否定するが、こんな壮絶な経験をすれば不眠症にもなるし、明らかにPTSDではないかと思う。最初頼りなく見えた精神科医が懲りずに何回も面談を重ねる。彼女も「薬だけ」と言いながらそれに付き合う。時には彼女のほうが彼を慰めるような場面もある。職場とアパートの往復だけの彼女の生活の、いい気晴らしになっているようだ。

メッセージを書く老女が突然死(びっくりした!)した為、彼女がその役目を引き継ぐ。そしてそこに個人的なメッセージをこっそりしのばせてしまう。ルール違反ではあるが、これが彼女の生活を変える第一歩となる。

とにかく主人公ドニヤの面構えがいい。
あまり感情を表さない彼女が感情を爆発させる場面がある。
同僚のジョアンナが自宅のカラオケで歌った時(彼女の声がとても美しかった!)ジョアンナの歌を聞いたドニヤが涙を流していた。
「Diamond Day」という曲。とても美しい曲だった。エンドロールでも流れていた。

もう一つ、同じアパートでいつも彼女を無視するスレイマンいう男に対して怒鳴るところ。このアパート、アフガニスタンの移民が暮らしているらしいが、彼女が同胞たちのコミュニティに溶け込んでいる姿はあまり見せない。精神科医を紹介してくれた男性と、娘を連れた女性と会話するくらい。そしてこの女性の夫がスレイマンでどうも彼女をよく思っていないらしい。同じ移民同士でもいろいろな考えの人がいるようで、女性であり、米軍の通訳をしていた彼女を裏切者のように見ているようだ。

孤独な彼女にも人とのふれ合いはある。
ジョアンナとは程よい距離感の付き合い方で心地よい。ジョアンナは夜中に電話かけてきたと思ったら、「1人でもダブルベッドにすべき」とアドバイスするし、ブラインドデート(出会い系アプリ?)を進めたりする。少々変わってるけど基本親切。

ドニヤが毎日通う食堂の主人もなんかおもしろい。同郷なのか(たぶんアフガニスタンの)ドラマを見ながら料理を出し話しかける。ドニヤの他にあまり客がいないみたいなのは、はやってないのか、単に客の少ない時間帯なのか。

精神科医もユニークだ。最初「予約を勝手に他の人に譲るなんて」と渋い顔していたけど、ドニヤがあまりに堂々としてるものだから、圧倒されて面談することになる。いざ面談し始めると親身になり、薬だけを希望する彼女のPTSDの治療のため何回も面談を重ねる。フォーチュンクッキーのメッセージを書くことを大いに推奨して、なぜか自分でも書いてみたとメッセージを並べる。自分の愛読書の『白い牙』を朗読し、感極まって泣き出す始末。面白すぎる。

彼が最初「自分の診察には2種類ある、診察代を払ってもらうものとそうでないもの」と言ったので、診察代払えない人の為の枠があるのかな、と思っていたら、娘が「プロボノと言ってたよ」と言う。プロボノとは専門的な知識・スキル・経験を無償提供して、社会貢献するボランティア活動、とのこと。そうか医師としての仕事をしながらボランティアしてるんだ。立派な人なんだなと見直した。

こうしてみるとドニヤは案外人に恵まれているのかもしれない。それは彼女が誠実に生きているからだろう。新しい出会いが彼女にさらに明るい日々を与えてくれることを祈る。
『悪魔の降誕祭』

『悪魔の降誕祭』

『悪魔の降誕祭』横溝正史・著 角川文庫 1975年初版 

3編収録。そのうち「悪魔の降誕祭」と「霧の山荘」は以前読んだ『金田一耕助の新冒険』に収録されていた短編を中編にしたもの。

元々NHKBSで4月に放送されたドラマ「悪魔の降誕祭」を見て原作に興味がわき、図書館にあった「金田一耕助の新冒険」の中の短編を先に読んだ。(4/26の投稿記事がそれ)
その時ドラマと違ったので、加筆された中編があることを知った。今回のはそのドラマの元になった加筆された方の作品。
なるほど、たしかにこちらがドラマの原作だった。俳優さんの演技と顔芸が凄かったのは、こちらが原作だったからと納得できた。

「霧の山荘」は短編では「霧の別荘」だった。こちらは読みながら「あれ?こんなに長かったかな、この話」と思っていた。ちょっと冗長に感じてしまった。短編のままの方がよかった。

わたしは短編を長編にした場合、だいたい短編の方が好き。無駄がないしキレがいいように思う。これはもう好みとしかいいようがない。
それとこの二つのケースとも何だか女性が短編の時より悪く描かれているような気がして、なんか作者の意地悪さを感じてしまった。

あとの一編「女怪」は、金田一耕助が思いを寄せる女性の存在と、事件の真相と悲しい顛末が新鮮だった。でもこんなことってあるかなあ。
映画「ドマーニ!愛のことづて」

映画「ドマーニ!愛のことづて」

映画「ドマーニ! 愛のことづて」2023年 イタリア
6/12 OttOにて鑑賞

これも見たかったけど諦めていた映画。ミニシアターで上映してくれて感謝。

よかった、とてもよかった!もう大興奮!
この映画の感想はいくつか読んでいたけど、肝心のネタバレをみなさん避けていてくれて、本当にありがとう。おかげで最後の最後まで勘違いしたまま見ていて、あの場面でようやく「ああ〜!そうだったのか!」と叫びそうになった。それまでちらちら感じていた違和感の正体が、一気にグワーと押し寄せてきて、あの場面もこの場面もこういうことだったのか!といちいちパズルがはまっていく快感!幸せな鑑賞体験だった。

第二次大戦後のイタリア。デリアの一日は夫の暴力で始まる。のっけから驚いた。しかも夫からの暴力は言葉でも絶え間なく浴びせられる。理不尽すぎて呆れるばかり。こんな暴力に耐えながらデリアは朝から掛け持ちで仕事に出る。仕事と家事とおまけに義父の介護もこなす彼女は、本来なら有能なはずなのに夫からは「役立たず!」「少しは人の役に立つことをしろ!」と怒鳴られる。はあ?これほど家族のために働いている妻にその言い草は何?こんな仕打ちになぜ黙って従っているのか理解し難いけど、それはいまの時代だからそう感じるのかもしれない。いや、今だってまだまだ家父長制の下、男尊女卑の慣習は根強く世界中に残っている。ましてやこの時代では女性が声を上げることさえ許されない風潮だったろう。見かねて「出ていけばいいのに」という娘に「どこへ?」と答える姿に、これほど有能でも自立は難しいのかと、女性の社会的地位の低さ、生きづらさが感じられた。

しかしデリアはおとなしいだけではなく強かさも持っている。義父には口答えもするし、しっかりへそくりもしているし、友人と市場で煙草ふかして息抜きもする。めげない彼女の強さを感じればこそ、夫は自分の不甲斐なさを認めたくなくて、よけいに彼女を貶めようとするのかもしれない。
娘はそんな父を嫌い母に同情しながらも、言いなりになる彼女にも非難の目を向ける。自分は母のような人生を送りたくないと言い放つ娘の気持ちも分かるが、母としては辛いところだ。
しかもあの環境は息子たちの教育上にも良くない。父親を反面教師にしてくれればいいのだが、あの子たちはもうすでに父親の生き方を手本として学んでしまっている。せめて母親を労ってほしいけど、将来が心配だ。

状況は悲惨なのだが、描き方はコミカルですらある。夫の暴力場面をダンスに見立てるのも、そうだけど、おもしろかったのはデリアと昔の恋人との場面だ。2人でチョコレートを食べて見つめ合うシーン。甘いラブシーンになるかと思ったら、なんと2人の歯にチョコレートが張り付いてギョッとした。その汚れた歯を見せ合いながら見つめ合う2人の周りをカメラがグルグル回る。あ、これキスシーンなんだ。実際の抱擁もキスもない斬新なラブシーンだった。

デリアの強さは娘の婚約者への扱いで分かる。婚約した途端亭主関白ぶりを見せ、この男は夫と同じだと感じ取ってからの行動の素早さ。その思い切りの良さと行動力。いやもうこの場面、あっという間だったしあっけに取られた。本当に驚いた。

そして彼女に届いた手紙。迷った末に行動を起こすが、出かける予定の日にアクシデントがあり、なかなか出かけられない。もう間に合わないと思った時彼女がつぶやいたのが、
「まだ明日がある」
実はこの言葉が映画の原題だった。昨年イタリア映画祭で上映された時は、この「まだ明日がある」がタイトルだったそうだ。こちらの方が内容に合っていていいと思うのだが。

ずっと謎だった手紙の正体が分かった時は、それまでの伏線の回収が小気味良くてたまらなかった。
迷いながらも大きな一歩を踏み出した彼女。娘に向ける笑顔と、夫に向ける毅然とした顔が印象に残る。彼女にも娘にも、わたしたち女性全てに明日の希望があると信じたい。
映画「侍タイムスリッパー」

映画「侍タイムスリッパー」

映画「侍タイムスリッパー」2023年 日本
7/5 OttOにて鑑賞

上映が始まった昨年からずっと見たかった映画。でも映画館は遠いし、テレビ放送を待つしかないと思っていた。幸い近場に出来たミニシアターで上映してくれたので、喜んで見てきた。(今週金曜日には地上波で放送があるけど、やはり映画館で見たかった)
その前に予習として、この映画の制作過程をテレビドキュメンタリーで見ていたし、伝説の斬られ役福本清三さんのドキュメンタリーも見ていた。

期待通りおもしろかった!
元々タイムファンタジーは大好きだった。その上「幕末の侍が現代の時代劇撮影所にタイムスリップしてくる」なんて、もうそれ聞いただけで勝ったも同然と思えた。突然大都会の真ん中で現代人がひしめく中にやってくるんじゃないのがいい。それだと大パニックが起こってしまうけど、この設定だと最初は彼も時代のズレには気づかずいられるし、いでたちも違和感ないので周りに受け入れられやすい。上手い設定だなあと感心した。上から目線ですみません。

それでも誰も彼に疑問を持たず、現代人の時代劇俳優(大部屋)だと信じているのが、まあ普通あり得ないのだけど(真剣持ってるし、マゲは本物だし、身元はっきりしないし、怪しさ満点なのに)そこはファンタジーだから。記憶なくしてるからと好意的に見てくれる人たち、基本的に皆優しい。悪い人嫌な人が1人もいなかったのは、とても気持ち良かった。

俳優陣も知ってるのは主演の山口馬木也以外は、お寺の住職さん(名前は知らないけど顔は見たことある)、住職の妻(紅萬子、この人は大阪制作の朝ドラによく出ていた)ぐらいしかいない。でもみんな良かった。
特に風見恭一朗役の冨家ノリマサはこんな重厚で、しかもあたたかく誠実さもある役者さんいたのかと驚いた。
殺陣師役の峰蘭太郎も素敵だった。本来は福本清三が演るはずだったという。そこはドキュメンタリーでもやっていた。

タイムスリップしてきた彼が受け入れられたのは、彼の誠実な人柄が大きかったと思う。うっかり本物の揉め事だと思い刀を抜いて撮影現場に参加してしまい、監督から怒鳴られる場面など、何も分からないがとにかく自分は何か間違いをおかしたらしい、と高圧的な態度をとらない。あまりのことに呆然として頭がまわらないからかもしれないが、そこでやみくもに暴れることもしない。
それでも自分の置かれた環境を理解して受け入れるのは、並大抵のことではなかっただろう。
自分が守ろうとしていた江戸幕府がとうの昔に滅んだことを知った時は切腹しようとする。ちょうどその時に雷鳴が響き、タイムスリップした時のことを思い出し、剣を突き上げて「戻せ!戻せ!」と絶叫するさまが痛ましかった。

やがてこの世界で生きていくために彼の選んだ職業が、時代劇の斬られ役。たしかにそれ以外ないというもの。絶望から新しく生き直す彼の姿、決して多くは望まず愚直に生きる姿に心打たれる。

新作映画ラストの勝負は、どうなるか全くわからなかったので緊張の連続だった。手に汗握りその顛末を見守った。


タイムスリップする場所だけど、お寺の門前にいたのに撮影所に現れた時は、かつてお寺だったところに今は撮影所が建っているからと思っていた。ところが町を彷徨っていてあのお寺の門前に来たので、違う場所だったと気がついた。どうして場所がズレていたのだろう。撮影所の時代劇セットが、あの時代の記憶を蓄積していて、それが作用して彼を呼び寄せたのだろうか。
ジャック・フィニィの『ふりだしに戻る』やリチャード・マシスン『ある日どこかで』では当時の建物、当時の新聞、服装、硬貨などを利用して、その時代にタイムスリップしていたけど、それと同じ理屈なのかな。
ミュージカル「二都物語」ライブ配信

ミュージカル「二都物語」ライブ配信

ミュージカル「二都物語」博多座公演千秋楽をライブ配信にて視聴。

「二都物語」についてはディケンズ原作のロンドンとパリを舞台にした(だから二都か)フランス革命時代の話で、主人公が身代わりになって死ぬ話という認識だった。身代わりなんて、嫌な話だなあと見るつもりはなかった。でもせっかくライブ配信あるのなら、井上芳雄と浦井健治の共演だし見てみようと思った。


正直1幕はのれなかった。2人に愛されるのが潤花ということぐらいしか事前に情報入れないでいたせいで、話の内容が頭に入ってこなくて、登場人物も似たような髪型で見分けつかないし、歌も印象に残らない。井上カートンはずっと酔っ払ってるし(その酔っ払い演技のまま歌うけど、それがまた上手い)、酔っ払いは嫌いだ。浦井ダーニーは最初叔父の悪辣公爵とやり合ってたら、潤花ルーシーと恋仲になってて結婚しちゃったと思ったら娘が出来て。はあそうですかという感じ。井上君がルーシーへの恋を自覚するところからしゃっきりするのは良かったけど。このままだと、井上君って歌上手いなあという感想で終わりそうだった。

でも2幕に入り俄然面白くなった。革命が始まり、個人ではどうしようもない大きな時代のうねりに飲みこまれ、もがきあらがい必死で運命を切り開こうとする人々。1幕の答え合わせのような怒涛の展開に目が離せなくなった。

革命前は貴族の非道な行いを見せつけ、一転して革命後は民衆の爆発した恨みが罪なき人をも虐殺していく。ファルジュ夫妻の「いつまで続けるんだ、もう終わらせよう!」「終わらない!」というやりとりがどちらの気持ちもわかるだけに辛い。人々は幸せになるために蜂起したはずなのに、この地獄はいつまで続くのか。
誠実で善意の人であるのに、彼の身内の残虐行為のために死刑判決を受けてしまったダーニー。彼を何とか救おうと奔走するが、最後の手段身代わりを決意するカートン。
ファルジェ夫妻、ダーニー、カートン、どうやっても動き始めた運命は止まらない。どうすることも出来ない。

処刑されるお針子(この子だって何の罪があるというのか)とカートンの間に、死の前に支えあい労りあうひとときがあって良かった。こんな場面見せられたら泣くしかないじゃないか。ルーシーから贈られた青いスカーフを巻いたまま、処刑寸前とても静かな明るい笑顔でこちらを向いて立つカートン。いい終わり方。その後のダーニーたちの様子を見せないのも潔かった。

ダブル主人公だと思っていたし原作ではそうなのかもしれないけど、このミュージカルではカートンが主人公で、ダーニーはあまり目立たなかった。ポスターではこの2人とルーシーの3人が写ってるけど、ダーニーとルーシーより印象に残ったのはファルジェ夫妻だった。橋本さとしと未来優希、お見事でした。

ディケンズの『二都物語』いつか読んでみようかな。
韓国ミュージカル『エリザベート』2022年公演版

韓国ミュージカル『エリザベート』2022年公演版

「エリザベート」2022年公演版 韓国
7/12 MOVIXさいたまにて鑑賞

韓国のミュージカルはすごいと噂で聞いていた。見たいけど韓国まで行けないしと思っていたら、「韓国ミュージカル on SCREEN」という企画で、映画館で上映されるという。その第一陣が「エリザベート」。幸い県内で上映館があったので、都内に出ないで見られた。


素晴らしかった!これこそわたしが見たかった「エリザベート」だった。

わたしが初めて見たのがウィーン再演版のDVDだったので、それが全ての基本になっている。日本の東宝版は演出が好きではなく、はっきり言えば嫌いなので、あの演出家と演出が変わらない限り、もう絶対見ないと決めている。

この韓国版では演出はウィーン版に準拠していて、それだけでもう素晴らしい。
そしてみんな歌が上手くて安心して聞いていられる。ミュージカルだから当たり前なんだけど、その当たり前が通じないことが、残念ながら日本ではままあるので。

ルキーニがルキーニだった!日本版でトートの家来みたいな扱いを受けていたルキーニだけど、本来この物語を動かしているのは彼なのだ。登場人物の間を自在に動き回り、煽りたて、観客に説明する。歌も削られることなく、皮肉さと軽やかさがある。日本のルキーニにどうしても満足出来なかったけど、ようやくルキーニらしいルキーニに出会えて嬉しい。

シシイ。歌も演技も素晴らしい!一体どこまでが地声なのか、高音になっても力強さは変わらず、とんでもない歌唱力。ダンスも軽やかでクルクル回るし、歌、演技、ダンス、何でも出来る人なんだ。すごい。

フランツ・ヨーゼフ。第一声で何て良い声!と驚いた。若々しい顔なのに低い声。オペラの人らしい。そりゃ上手いはずだ。「夜のボート」や「悪夢」では、もうかわいそうでかわいそうで。シシイいい加減戻ってやれよ、と思ってしまった。

トート。はい、短髪トートですよ、みなさん!日本のお耽美長髪トートが嫌いなので、非常に満足。このトート、ナルシストで勘違い俺さま坊っちゃん。空気読まずに出て来ちゃ振られてすごすご退散する。なんか可愛い。

演出としては一緒だけど、ウィーン版のマテさん(マテ・カマラス)やマークさん(マーク・ザイベルト)みたいに大人っぽいと、その滑稽さや間抜けっぽさはそこまで感じなかった。いつもタイミング悪いなあ、ぐらい。それが顔だちが子どもっぽいせいもあり、それをもっと強く感じた。この子なら「愛と死のロンド」はあってもいいかなと思えた(いつもあの歌はいらんと思っている)「最後のダンス」を結構踊りながら歌ってて、渾身のラストの歌い上げはさすがだった。シシイを最後に迎えたのが白い衣装で、婚礼衣装かよ!と突っ込みたかった。楽しかったよ。


日本の演出、特に東宝版で気に入らなかったところが、ほとんどなかったのが何より良かった。元々日本初演は宝塚で、その演出は宝塚独特のスターシステムに則った、妥当な演出だったと思う。
でも東宝版にする時にそれを引きずってほしくなかった。素直にウィーン版をそのままやってほしかった。
今回の韓国版を見て嬉しかったと同時に、どうしてこれが日本でも出来ないのかと悔しくなった。
『またのお越しを』 8巻

『またのお越しを』 8巻

『またのお越しを』8巻 おざわゆき・著 講談社 2015年 7月

この第8巻で完結。7/11に配信されていた。最終話の一つ前39話まではwebで読んでいた。

まるっきりの素人だった枷耶子たちがお店を開店してから約1年。ライバル店や灯まで巻き込んで、町のイベントとして桜まつりを企画するまでになった。人と関わることが苦手で、言いたいことも言えず辛い現実からは逃げ続けていた枷耶子が、明るい笑顔で接客しお客に寄り添う。人としての成長と商売人経営者としての成長を追ってきた物語が完結した。

その他の登場人物たちもそれぞれの成長を見せる。あんなにだらしなく怠け者だったのえるが、しっかり共同経営者として務めを果たしてし、灯でさえ人のことを労ることができるようになる。というか灯の言うとおりみんなルカちゃんに頼りすぎ!いつだって駆り出されてるし、また頼りになるんだよなルカちゃん。その実力を認められ新しい職場で店を任される。よかったね!
最初感じ悪かったチドリも着物に対する偏見を捨て、いい距離で付き合えてる。
杜紫さんはなあ、カゲリが言うように考えすぎてウジウジしてたけど、また「くくりや」に戻れてよかった。最終話でようやく母親に再会したけど、もっと早く会いに行けよ!カゲリは「あの子はよく泣く、それがいい」と言い、灯はほっとけなくて彼を雇い、あれこれ気にかける。この兄弟あってこそ杜紫さんは立ち直れたんだなあ。
最終話ではイベントに来てくれた高校時代の同級生から、当時のカゲリのエピソードが語られる。昔からブレてなくてかっこいいな。


一方枷耶子とのえるの家族については祖母(おばあ)以外の描写はない。わずかに枷耶子の母親が後姿で枷耶子の夢の中で登場する。枷耶子のあの性格は、母親から常に否定されていたことから形成されていたのがわかる。その他の情報、どこに住んでいて父親やきょうだいはいないのか、などは語られない。それは物語の本筋ではないのだろう。
38話でカゲリがタクシーで枷耶子たちをおばあの家の跡地に連れて行ってくれたけど、一体どこなのだろう?タクシーで行けるから、都内か東京近郊か?それよりなんでカゲリが知ってるのかも謎だけど。たしか1話でのえるがおばあに「かやちんみたいに東京の学校いきたい」とねだってたから、おばあの家も枷耶子やのえるの家も東京じゃないようだ。

第1巻が2022年刊行。4巻までが紙の書籍、5巻からは電子だけになってしまったけど、着物と和小物について懐かしさを覚えて、3年間追ってきた。とりあえず大団円でいいのかな。ほのかに恋の成就も予感させて終わるのは、頑張ってきた枷耶子へのご褒美ということか。「くくりや」の未来が明るいことを祈ろう。

このご時世と年齢があって遠出は出来ないけど、いつか有松へも行けたらいいなと思う。
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