1週間後

1週間後

先週、低音障害型感音難聴で薬を処方され、不味いと強調された薬を頑張って飲んだ。1週間後の本日再診。

最初に聴力検査。先週とは違い右耳もかすかだけど聴こえたので、聴力回復したようだ。期待して先生の診察を待った。
診察では「良くなっているからあと1週間服用して、それで治療終了しましょう。まだ違和感あったり心配だったら来てください」と言われた。
よかった!効果なかったらステロイド投薬になったかもしれないので、ホッとした。今もまだ少し違和感あるので、これがまだ残っていたら念のためもう一度診察を受けよう。

あと1週間また3種類の薬を飲む。イソバイドシロップにもようやく慣れてきた。苦いのか甘いのか不思議な味だけど、最近は舌と脳がこの味を覚えたらしく、飲んだ時の衝撃が少なくなってきた。あと1週間頑張って飲もう。
『ゆきのおしろへ』

『ゆきのおしろへ』

『ゆきのおしろへ』ジビュレ・フォン・オルファース/作 秦理絵子/訳 平凡社 2003年

オルファースの処女作。もうめちゃくちゃかわいい!だってさ!「ゆきのこたち」がね、まるくって、白くって、ころころしてて、ふわふわ飛ぶんだよ!ちょっと正気を失うほど可愛さに悶えてしまった。

オルファースの絵本のうち一番気に入ったので、買う気満々だったのに絶版で、中古でも一桁違う値段がついてて、さすがに躊躇した。
英語版ならそこそこの値段であるけど、どうせ洋書にするなら原語のドイツ語版がいい。

英語版『The Story of the Snow Children』の試し読みを見たら女の子の名前がPoppyになっていた。
原題が『Was Marilenchen erlebte!』(マリーレンちゃんのおはなし←福武書店『ちょうちょうのくにへ』の訳者あとがきによる)なので、女の子の名前はマリーレンのはずだ。日本版の『ゆきのおしろへ』ではちゃんとマリーレンになっている。

名前を自国風のものに変えるのは、日本だって昔は、例えば「ジョン」を「太郎」と訳すことはあったのだろうから、よくあることなのかも。またあまりなじみのないものをわかりやすいものに変えることもある。『ライオンと魔女』で「ターキッシュ・デライト」が「プリン」になったように。『ひとまねこざる』で「スパゲッティ」が「うどん」だったように。
ドイツ語から英語に訳す時、名前はどうするんだろう。「カール」を「チャールズ」に、「ミハエル」を「マイケル」にしたりするんだろうか。

Amazonでドイツ語版もあったけど、これも平凡社版ほどではないけど結構お高くて諦めた。
せめてポストカードとかないかしら。あの「ゆきのこたち」のデザインなら絶対需要あると思うのだけど。
オルファースの絵本

オルファースの絵本

 『根っこの こどもたち 目をさます』『ねっこぼっこ』でオルファースを知って、他の絵本も図書館から借りてきた。

34歳で逝去したオルファースの残した絵本は8作。そのうち日本で出版されたのは6作。

福武書店から2作、平凡社から6作、童話館から2作。

福武書店
『ねっこぼっこ』生野幸吉/訳 1982年9月
『ちょうちょうのくにへ』松居友/訳 1991年3月

平凡社
『森のおひめさま』秦理絵子/訳 2003年2月
『うさぎのくにへ』 〃 2003年4月
『風さん』     〃 2003年9月
『ゆきのおしろへ』 〃 2003年12月
『ちょうちょのくに』〃 2004年4月
『ねっこぼっこ』  〃 2005年5月

童話館出版
『根っこのこどもたち 目をさます』石井桃子/ 訳 2003年3月
『かぜさん』さがの弥生/訳 2012年1月
(この『かぜさん』だけは、図書館になかった)

最初にオルファースの絵本を出版したのは、福武書店。福武書店は本当にいい児童書いっぱい出していたのに、ベネッセになって児童書出版から手を引いたのは残念だ。

平凡社が2003年からオルファースの絵本を次々に出版していた。出版社のサイトを見ると6冊セットの販売もあった。その時知っていたら購入したのに〜(T . T) 復刊してほしい。

出版社が違うとタイトルも訳者も違い、元にした原書も違ったりしている。出来るだけオリジナルに近いものを読みたいけど、そうすると平凡社版になるのか。

平凡社の『ちょうちょのくに』の訳者あとがきに
ー『ちょうちょのくに』の初版の約20年後に、児童文学作家アルベルト・シックストゥスが、オルファースの絵に合わせてテキストを書き、現在ドイツではそちらが復刻されているが、本書はテキストもオリジナルのオルファースのものから翻訳した。ー
とある。

本国ドイツでさえオリジナルでないテキストが使われているのには驚いた。長く読み継がれていくためには仕方ないことなのかもしれないけど…。

この「ちょうちょのくに』がオルファースの遺作で没後まもなく出版された。
資格確認書が届いた

資格確認書が届いた

わたしは国民健康保険に加入している。

昨日国保年金課から見慣れた封筒が届いた。
いつもなら8月1日からの新しい保険証のはずだけど、はい、来ましたよ、例の資格確認書。
いやー噂には聞いてたけど、今までの保険証とまるで一緒。「被保険者証」の文字が「資格確認書」に変わってるだけだった。

アホらしい。従来の保険証を残しておけばこんな変更しなくても良かったのに。しかも申請しないでもちゃんと送られてくるのだから、本当に以前の保険証と変わらない。
資格確認書のことが発表された時、申請しないとダメなのかと思っていたけど、市役所からは前もって、「何もしなくても送付されます」という案内があった。それでも本当に送られてくるまで少々不安だった。

今回マイナ保険証登録済みの人には送られなかったのだろうか?それだとわざわざマイナ保険証登録済みの人と未登録の人を仕分けする手間が余計にかかるので、担当者は大変だったろうなあ。うちは人口の少ない市なのでまだいいけど、たしか東京ではその手間の方が大変なので、全員に資格確認書を送ることにした区があったはず。本当に現場の人は大変だよ。

いずれは申請しないと送られてこなくなるのかもしれないけど、そうすると申請忘れとか出てくるし、対応に追われて担当部署はますます大変になるだろうなあ。誰の得にもならない、現場に混乱と負担を押し付けるだけのこんな制度、本当に見直してほしい。


写真は道端に咲いていたモナルダ。わたしが知っているモナルダは赤紫色だったので、最初わからなかった。こういう色もあったのだ。
『ねっこぼっこ』旧訳と新訳

『ねっこぼっこ』旧訳と新訳

『ねっこぼっこ』
ジュビレ・フォン・オルファース/作 
写真左 生野幸吉/訳 1982年 福武書店
写真右 秦理絵子/訳 2005年 平凡社

2冊とも古本サイトで購入。

原題の「根の子ども」を「ねっこぼっこ」としたのは、旧訳の訳者生野さんが東北地方の方言の「ぼっこ」を当てたもの。とてもかわいい呼び方。

(「ぼっこ」で思い出したのが、絵本『ちいさな こだまぼっこ』(あまんきみこ/作 渡辺洋二/絵)。懐かしくて取り出してみたら、すごく汚れていた。それだけ何回も何回も読んだんだなあ。)


新訳旧訳にも違いがある。元々の色調なのか、経年による褪色なのか、旧訳の方が色が薄い。装丁も新訳の方は見返しに童話館版「根っこのこどもたち目をさます』の表紙に使われていた絵があったり、表題紙に可愛いねっこぼっこたちの絵があったり、色もあざやかできれい。
旧訳の方はタイトルの字体がくるんとしてて根っこみたいでおもしろい。

そしてテキストは、これはどちらも原文からの翻訳なので、リズミカルな詩のようだ。これは読むたびどちらもいいなあと決めかねている。生野訳は少し古いかな、でもそこがいい。。秦訳のほうはやさしくて読みやすい。童話館版で「スイレン」とあるのを「ひつじぐさ」としているのは、生野訳も秦訳も同じ。わたしはこの「ひつじぐさ」という言葉が雅で好きなのだ。

大きく違うのは「ねっこぼっこ」たちの地中での春の準備の部分。
生野訳では針仕事をするのはただの「ねっこぼっこ」で、次のページでは「ねっこぼっこの おとこのこ」と書いてある。
秦訳では「べつのおへやの ねっこぼっこ」と書いてある。

ここは娘が男女分けてない秦訳のほうがいい!と強調していた。

そして、ここは童話館版ではもっとはっきり「根っこの おんなのこたち」「根っこの おとこのこたち」と、男女分けて書いてある。英訳版でもそうなっているのかな?

絵を見るとそれぞれ服装が違う。針仕事の「ねっこぼっこ」は帽子はかぶらず服もくるぶしまであるワンピース、違うページの「ねっこぼっこ」は帽子をかぶりズボンをはいている。だから作者もここは女の子と男の子と分けて描いている。

原書でもこの部分は「Wurzelkind」と「Wurzeljungen」になっている。「kind」は子ども「jungen 」は男の子という意味なので、やはりここは男の子と訳して間違いではない。(娘は、kind のほうも前置されてる語の格変化で女性系になってるのかもしれないが、ぜんぜんわからんと唸っている)


童話館版は英語版からの翻訳だけれど、ちょっとわからないのが、オルファース「絵」、フィッシュ「文」、石井桃子「訳・編」となっているところ。元々オルファースが文も付けてるのに、なぜオルファースは「絵」だけで、「文」は他の人なのか?ちょっと調べてみた。

ドイツ語の原文だと、韻を踏んでいてこれは完全に詩の形だ。これを英訳する時に散文にしたと、英語のレビュー投稿サイトらしきもので読んだ。(ただしこれは出版社公式の情報ではない)

https://www.goodreads.com/book/show/4072058-when-the-root-children-wake-up

これを読んでなるほどと思った。元のオルファースの詩を元にしてフィッシュが文を書いた、つまり「リライト」「再話」と考えればいいのか。

なぜオルファースの詩のままで英語に翻訳しなかったのか疑問だけど、詩よりも散文の方が子どもに受け入れやすいと考えられたのかも。たしかに童話館版はより物語風で説明的になっている。わかりやすい反面、やはり詩のままで残してほしかったなという気持ちがある。


思いがけず調べものが続いたが、一つの絵本から世界が広がるのはとても楽しかった。
『根っこの こどもたち 目をさます』

『根っこの こどもたち 目をさます』

『根っこの こどもたち 目をさます』 ジビレ・フォン・オルファース/絵 ヘレン・ディーン・フィッシュ/文  いしい ももこ/訳・編  童話館出版 2003年

先月の青空古本市で見つけた絵本。
表紙も本編もとてもかわいい絵。冬の間地面の下で眠っていた根っこの子どもたちが目を覚まして春に備えて仕事をはじめる。準備が整い春になったら花の子となって外に出ていき、思い切り楽しい春夏を過ごして秋風が吹いてくるとまた地面の下に帰っていく。
自然の営みを擬人化した根っこの子どもたちの活動で描いている。この子どもたちがとにかく可愛くて可愛くて。季節のめぐりと小さな草花や虫たちに、やさしくあたたかなまなざしが向けられている。

とても気に入った絵本だったけど、英文の奥付でちょっと疑問に思った。
イラストは1906年、テキストが1930年。そしてオリジナルの出版は1906年ドイツ。あれ?文章は後からつけたの?
日本版奥付けの作者紹介を読んでようやくわかった。オリジナルではテキストもオルファース自身がつけているということ。それを英語に翻訳したのがフィッシュさん。その翻訳を石井桃子さんがさらに日本語に翻訳したということらしい。だから「訳・編」なのか。

では原書のドイツ語版からの日本語翻訳はないのかと思ったら、『ねっこぼっこ』という絵本が1982年に福武書店から、2005年に違う訳者で平凡社から出版されていた。
これはぜひそちらも読んでみたい!
『わたしはBIG! ありのままで、かんぺき』

『わたしはBIG! ありのままで、かんぺき』

『わたしはBIG! ありのままで、かんぺき』
ワシュティ・ハリスン・作  ジェーン・スウ・訳  ポプラ社 2025 年2月

「あるところに、おおきなえがおと おおきなこころ おおきな おおきなゆめをもつ
おんなのこがいました」

という文章ではじまる絵本。大きいことはいいこと素晴らしいこととほめられ、女の子はすくすく育つ。そのうち女の子にかけられる言葉が変わってくる。女の子自身は何も変わってないのに、肯定的な言葉から否定的な言葉へと。
「大きすぎる」「もう大きいんだから」「大きすぎて似合わない」
みんなと同じまだまだ小さい女の子なのに、見た目だけで大きいから小さい子のものは使うなとか、もうお姉さんなんだからと我慢することを強いられ、どうしてそれがわからないのか出来ないのかと責められる。女の子は傷つき萎縮してしまう。

「じぶんはどこにいても めだちすぎで きめつけられて それなのに だれのめにも うつらないんだと、かんじるようになりました」

もう女の子がかわいそうでかわいそうで、周囲の人の無神経な言葉に腹が立って仕方がなかった。縮こまり涙にくれる女の子に、早く誰か手を差し伸べて!と祈っていたら、ここからの展開が素晴らしかった!
普通なら誰か味方が現れるだろう。だがこの女の子は自分の足で立ち上がるのだ!

「もっと じぶんのために いばしょをつくろう。じぶんを あいしてみよう」

決意した女の子は自分が傷ついたことをきちんと周囲に告げる。人々は、そんなつもりはなかっただの、考えすぎだのと、まともに受け止めてくれない。中には手を差し伸べる人もいたが、その人は「かわりたいならたすけになるよ」と言う。それは女の子の望むことではない。

「だいじょうぶ わたしはこのままのじぶんが すきだから」

素晴らしい!本来なら親なり教師なり周囲の大人が伝えてあげるべき言葉なのに、この子は自分でそれに気づく。子どもが持つ生きる力、それを信じさせてくれた。頑張って!と全力で応援したくなる。
一方で大人が誰もそれに気づかないというのが、やるせないのだけれど、いつか必ず気づいてくれる大人があらわれることを信じたい。子どもの本来持つ生きる力は、大人の支えがあればより強く発揮出来るだろう。それを支えられる大人でいたいと思う。

絵も素晴らしい。女の子が、のびのびした笑顔から次第に悲しい顔に変わっていく。その悲しい顔の女の子が紙面いっぱいに描かれた絵は、行き場のない閉じ込められた女の子の心が見てとれ息苦しくなる。最後のページは「似合わない」と言われたピンクの服を着て踊る女の子。そう、誰に何と言われても女の子は自分を愛し自分の道を進むのだ。

大きくても小さくても、見た目で判断されることはありがちだ。それが間違っているとわかっていても、ついつい大きいと大人扱いし、小さいと逆に子ども扱いしてしまう。また何気ない言葉が、相手を傷つけてしまうこと、そこに無意識の偏見があることにもっと自覚を持たなくてはならないと反省した。

村上雅郁の『りぼんちゃん』では主人公は体が小さいため、同級生からも子ども扱いされる。相手は可愛いがってるつもりで悪気はないのだが、それは彼女を軽く見ていることになる。侮られ軽く扱われることは辛い。あの作品でも胸が苦しくなるほどだった。
八木重吉と漢詩

八木重吉と漢詩

昨日娘が急に「水を渡り水を渡り」と言い出して、「えっ何それ?」と聞いたら「八木重吉かなあ?巫女の唇が赤いって終わるの」とうわごとのような事を言って、風呂に入って行った。

なんだそれ?
検索して「水を渡り〜」は漢詩、「巫女の唇〜」はたしかに八木重吉だと判明した。なんでその二つが結びついた?

漢詩の方は高啓という人の作。

「尋胡隠君 こいんくんをたずぬ」 高啓 

渡水復渡水  水をわたりまた水をわたり
看花還看花  花をみ また花をみる
春風江上路  しゅんぷうこうじょうのみち
不覚到君家  おぼえずきみが家に至る

きれいな詩。口に出して唱えたくなる。


八木重吉の方は、詩集『秋の瞳』の中の「大和行」という詩だった。最後の行がこれ。

白衣の 神女は くちびるが 紅い
(びゃくえ) (みこ)


この「大和行」八木重吉にしては長い詩なので(16行)覚えていたそうだ。「素朴な琴」は4行、「花になりたい」は2行だものね。
久しぶりに八木重吉詩集を取り出して眺めていた。やっぱり好きだなあ。
やなせたかし

やなせたかし

最近朝ドラも大河ドラマも見なくなったけど、情報はけっこう耳に入ってくる。
今季の朝ドラ「あんぱん」は漫画家やなせたかし夫妻がモデルらしく、ちょっと興味はあったのだけど結局見ていない。

やなせたかしは「アンパンマン」で有名だけど、わたしが初めて彼を知ったのは小学生の頃テレビでやってた「まんが学校」だった。なんか講師みたいな立場だった。そのときは彼の作品を読んだことなくて、でもわたしの知らない偉い漫画家さんなんだなと思っていた。
その後雑誌「週刊朝日」(当時親が毎週買っていたので家にあった)で懸賞漫画が募集され、それに入選したのがやなせたかしの「ボオ氏」だった。懸賞漫画なのでてっきり新人が応募してると思ってたのに、現役の漫画家も応募していたのかと驚いた。そのあと「ボオ氏」が連載されていたけど、頭が帽子で顔がないボオ氏が主人公のセリフのない4コマ漫画で、当時のわたしには(たぶん中学生)あまり面白くなかった。今なら違う感想を持ったかもしれない。

やなせたかしの名前はずっと覚えていたけど、漫画はそれ以来読んだことなかった。短大卒業後だったか、サンリオの雑誌「詩とメルヘン」を友人にもらってその編集長が彼だと知って、漫画じゃなくて詩とイラストを書くようになったのかと驚いた。優しい詩とイラストはけっこう好きだった。
「詩とメルヘン」は一時期ハマって読んでいた。イラストコンクールの受賞者でその後活躍してる人も多い。わたしは葉祥明の絵が好きだった。

「アンパンマン」を知ったのはいつ頃だったか。子どもたちが小さい頃、たしか新聞の日曜版で読んでいたのだが、それが初めてだったのかどうか覚えていない。気がついたら大人気でやなせたかしの代表作になっていた。
「手のひらを太陽に」の歌詞がやなせたかし作だというのはかなり後になって知った。

こうしてみるとわたしはファンとは言えないけれど、年を重ねて違う形で何度も出会っていた漫画家さんだった。それもまた縁なのだろう。わたしにとって1番思い出深いのはやはり「詩とメルヘン」になるのかな。そしてあの頃理解出来なかった「ボオ氏」は、今読んだらどんな感想を持つのだろうか。ちょっと気になる。


写真はハンゲショウ。半夏生が過ぎ花が終わると、葉っぱの白い部分がこれからまた緑に戻っていく。不思議な花。
低音障害型感音難聴

低音障害型感音難聴

低音障害型感音難聴になってしまった。
昨日左耳に違和感があった。なんかボワーンとした感じでまるでプールから上がった時の感覚だった。痛みはないし、別に聴こえも悪くない。ただちょっと自分の声がこもって聞こえる。あくびしたら治るかなと思っていたが、何回かあくびが出ても治らない。まあそのうち治るだろうと軽く考えていた。
今朝になってもまだボワンボワンとした違和感があった。昨日より悪化してるし、ほんの少し右耳にも違和感出てきたので、さすがにこれはちょっとまずいかなと、耳鼻科に行くことにした。本当は今日は映画に行く予定だったので、映画の帰りに寄ればいいかなとも考えたのだが、もし突発性難聴とかだったら早い方がいいだろうから、映画よりも耳鼻科を優先した。

医師の診察では外耳には異常ないが、こういう症状は聴力が落ちていると出てくるとのこと。聴力検査の結果、やはり2年前より落ちていた。しかも症状があったのは左耳なのに、聴力が落ちていたのは右耳だった。確かに検査の時右耳の方が聴こえが悪かったので不思議だったのだ。悪い方と逆の方に症状が出るのはよくあることらしい。

病名は低音障害型感音難聴。突発性難聴の一種とのこと。ストレスなどで起こるそうだ。「生活環境が変わったり、強いストレス感じたりなど心当たりありますか?」と聞かれたけど、特にない。熱中症対策にかなり気をつかってるくらいかなあ。寝不足やガザなど心痛める世界情勢も関係しているかも。
治療としてはとりあえず利尿剤の服用になった。ステロイドの方が効果があるらしいが、高血圧や糖尿病があると使えない。わたしは今高眼圧の治療で点眼薬を使っているが、それにも影響あるらしく、ステロイドを使うなら眼科医に相談しなければならないという。まず1週間利尿剤で様子を見ようということになった。
その薬だけど、医師が「不味いけど頑張って飲んでね。もしどうしても無理だったら言ってね」と言ったので驚いた。え?そんなに不味いの?薬局の人も「冷やしたり、レモン汁加えたりしてもいいですよ」と苦笑いしながら言ってた。どんだけ不味いんだ?

その薬「イソバイドシロップ」昼食後飲んだけど、うん、確かに不味い。複雑な味だった。あれ?甘い?いや苦い!どっちだ?すごく苦いのを緩和するために甘いシロップを混ぜているようだ。でも緩和しきれない苦さが残ってる。ようするにとても不味い。飲めない程ではないけど、飲んだ後口直しが欲しい。これを1日3回飲むのか。なかなかの苦行だ。良薬は口に苦し。

薬はその他に2種類出た。メコバラミン錠とアデホスコーワ顆粒。こちらは錠剤と顆粒なので難なく飲めた。

メコバラミン錠って、ああ、これメチコバールか!夫が橈骨神経麻痺になった時服用した薬だ。ビタミンB12製剤で、ビタミンでこの症状が治るの?と疑ったのだけど、これがちゃんと治ったのだった。夫と同じ薬を飲んでいるのかと思うと、ちょっと切なく懐かしい。