日々の雑記
リニューアル

リニューアル

このブログをはじめたのは2014年4月からだったが、Twitterをはじめた2018年11月からずっと休止状態だった。Twitterから離れたくて、今年1月からまた再開した。長く放置してたからもう使えないかなと心配してたけど、以前と同じように書き込めたので、設定も特にいじらずそのまま使っていた。
それが昨日ふとブログ設定のテンプレートを見て、自分のと違うことに気がついた。テンプレートが更新されていたのだった。試しに更新してみると、写真と文字の配置がこの方が読みやすいし、カバー画像も設定出来るようになっていた。ちょっと嬉しい。リニューアルで気分も新たにまたはじめよう。
『アンナ・コムネナ』女性と出産

『アンナ・コムネナ』女性と出産

『アンナ・コムネナ』
この作品の皇妃皇女たちは子沢山である。子どもは帝国の繁栄の為に多ければ多いほどよかったのだろうし、その環境も整っていたろう。皇族なので、他のことに(家事や育児など)悩まされず出産に専念出来る。
良いことみたいだが、つまり女は子どもを産んでさえいればいい、それだけが仕事、それさえしていればいいという価値観の世界。自分にはそれだけしか価値がない、と思わされている女性の姿を見るのは辛い。

アンナの母エイレーネーはアンナを筆頭に9人産む。11歳で嫁ぎ14歳で皇后になり17歳で初産、それから絶え間なく妊娠と出産を繰り返し、第8子第9子を幼くして亡くす。31歳でこれ以上の出産には耐えられないと診断される。その時の彼女の嘆きが「もう自分は皇后の務めを果たせない」というもの。「頑張って頑張って頑張って産み続けてきた、でももう駄目」と泣き崩れる。そんなことを思わせる世界に猛烈に腹がたつ。

アンナの弟は、なかなか子どもが生まれない妻に「自分に問題があるかもしれない」と理解ある言葉をかけるが、それでも責められるのは妻の方なのだ。

ヨハネスの妃ピロシュカは7人産んだ後、もう体が持ちそうにない、では自分はこれから何をすればいいのかと悩む。エイレーネーと同じだ。

アンナ自身は6人出産し第5子第6子を亡くす。子どもの死亡率が高いのはこの時代仕方ない。

仲のいい家族は見ていて微笑ましいが、そのなかでもさまざまな悲しみは存在する。

皇帝は嘆くエイレーネーを慰め、常に傍らにいて自身の支えとなることを求めた。子どもを産むだけでない皇后の役割が生まれたことは喜ばしい。これはアレクシオスの偉かった点。だがそんな皇后のあり方(皇后の役割発言力が強くなる)を苦々しく思う周囲からは非難される。ヨハネスも、男に仕えて子どもを産むのが女の役割という考えだ。

アンナの妹エウドキアの結婚生活は夫のDV夫婦間レイプに耐えるものだった。離婚して修道院で穏やかに暮らせるようになり解決したけど、このことでエイレーネーは痛感する。女は常に軽んじられ、皇女皇后でさえ虐げられ公然と侮辱される。ヨハネスの治世になったらおそらく女の発言権はなくなる。その危機感がエイレーネーにアンナ即位を決意させる。これはただの皇位継承争いではなく、女性の地位向上への戦いであった。

今でも、女性は子どもを産むことにこそ価値がある、という考えは根深くある。アンナたちの戦いは今も続いている。
出身地

出身地

出身地ってどこのことをいうのだろう?
生まれたところ?育ったところ?引っ越したらどうなる?親の代からずっとそこに住んでいたら間違いないけど。だから夫は迷いなく三重県出身といえる。
わたしの場合は生まれてから中学2年まで京都市に住んでいた。しかし父の出身は広島県福山市で母は青森市だ。父と母が結婚して少しして住んだのが京都。中学3年から東京都杉並区に住み高校3年で多摩市に引っ越し、結婚するまでそこに住んでいた。
この場合出身地としてはやはり京都になるのかな。ただ父も母も元々京都の人ではなく、親戚もいないので、なんとなく故郷という気がしないのだ。懐かしい気持ちはあるが、出身地と名乗っていいのか遠慮がある。だから履歴書に出身地を書く時いつも迷っていた。

なぜ今さらこんなこと考えたのかというと、今日娘から
「母さんは育ったのは京都だけど生まれたのは違うところだと思っていた」と言われたから。
どうしてそう思ったのか明確な理由はないそう。ただ何となく生まれたのは違うところで、その後京都に住んだと思ってたそう。
うーん、それはたぶんわたしが京都を出身地と呼ぶことにためらいを感じていたのを、何となく察していたのかもしれない。
両親はそれぞれ生まれ故郷を持ち親戚もそこに居るので、出身地は京都ではなくそちらだ。わたしが何となく京都を出身地と感じられないのは、そのせいかもしれない。

娘との会話でもう一つ驚いたこと。わたしが
「えっ?生まれたのも京都だよ?ちゃんと親から生まれた時のことも聞いたし。京都の家の二階の部屋で生まれたの。安産だったって」
と言うと、娘が
「えっ?家で生まれたの?じゃ産婆さん?」
と言ったので、思いがけない反応にこっちが驚いた。そうか、娘世代は病院生まれだものね。わたしが生まれたころは家での出産が当たり前だったから、普通のこととして受け止めてるけど、今では、というかわたしが出産した時もほとんど病院だったからね。
一緒に暮らしていても、知らないことってお互い結構あるんだなと思った。
『アンナ・コムネナ』いろいろ思うこと

『アンナ・コムネナ』いろいろ思うこと

『アンナ•コムネナ』6巻のアクスークが先帝アレクシオスを残酷だと批判する独白。
ーヨハネスに期待しながらアンナの野心を否定せず、曖昧な態度で2人を苦しめたー
そう、そうなのよ!全てはそこ!
彼にとって長子であり美しく聡明なアンナはそれはもう可愛くて仕方なかったろう。アンナもファザコン全開で慕ってくるし。人々も認める天才ぶり、その的確な提言も頼もしかったろう。しかしこの時代、皇帝は男子と決まっている。皇位継承権は最初から弟ヨハネスにある。そこをアンナにも周囲にも、もっとしっかり知らしめておかなくてはならなかった。もちろんこの時代の常識としては当たり前のことなので、殊更言うこともないと思ったのだろうが。また優秀なアンナと競わせた方が、ヨハネスの帝王教育のためになると思ったのかもしれない。この思惑がうまくいけば、2人で切磋琢磨して成長し、アンナはいずれ皇帝ヨハネスを支える優れた参謀役となる。アンナに期待したのはそれだろう。
だがあまりに優秀なのと周囲もそれを認めている環境の中、アンナは自分こそが皇帝に相応しい能力をもっていると疑わず、いつかきっと父にも認めさせるとさらに研鑚に励む。凄まじい自己肯定感。それは権勢欲ではない、男だから女だからと役割を決めつけられることへの怒りと、必ずそれを正してみせるという使命感であったと思う。
ヨハネスにしてみれば、常に自分の先を行く(年齢的に仕方ない)アンナと比べられ、アンナからは面と向かって「自分こそ皇帝に相応しい!」とマウント取られ続け、屈折するのも無理はない。6巻の終盤、アンナは妹エウドキアにヨハネスのことを「生まれてからずっと姉と比べられ、最も優れた者でなくてはという重圧の中にいたから、お姉様が輝くたびに傷ついていたのでは」と指摘される。見えていなかったものにようやく気づくアンナ。
このエウドキアも夫のDVの犠牲者だった過去がある。こういう、男性に軽んじられる女性の地位を上げたいという思いもアンナにはあった。だからこそ皇帝になりたかった。自分のためだけでは決してない。
5巻に「お前が男であればなあ…」と父皇帝がアンナに言う場面があるが、あちゃー、治世の終盤にきてまだそれ言うか?アンナにとってもヨハネスにとってもなんと残酷な言葉だろう。だから皇帝崩御後のいわば騙し打ちのようなヨハネスの即位は、起こるべくして起こったことだ。あの世で反省しなさいアレクシオス1世。

『緋色の皇女アンナ』で修道院での囚人のようなアンナの生活を見ていたので、クーデター失敗後どんな惨めな環境に置かれるかと心配していたのだけど、このアンナさまは修道院でも優雅で変わらぬ生活を送っていたのでホッとした。ヨハネスとも長い確執を超え、互いに相手を正しく理解できるようになり、和解できて本当によかった。
望んだ皇帝にはなれなかったけれど、学問への情熱は衰えず、書くことで自分の戦いを続けた。
「言葉は心を運ぶ容れ物になる これからアンナの魂と出会う人びとが この短い人生で成し遂げられなかった事々をきっと成し遂げる これがアンナの戦い方」

アンナの著書『アレクシアス(アレクシオス1世伝)』は、ビザンツの歴史文学として最高傑作とみなされている、という。
アンナさま!!
『アンナ・コムネナ』と『緋色の皇女アンナ』

『アンナ・コムネナ』と『緋色の皇女アンナ』

『アンナ・コムネナ』のWeb上での連載が始まった頃、昔図書館で見かけた本を思い出した。それがトレーシー・バレット作『緋色の皇女アンナ』これアンナさまのことよね?当時もちょっと興味あったので、漫画の参考になるかと、まだ漫画の1巻刊行前に読んでみた。

あれ?これ史実と違うのでは?児童書のせいなのか、アンナがまだ若いままで話が終わってしまう。これでは年齢が合わないのでは?
最初修道院で囚人のような生活を送りながらも、誇り高く生きるアンナの姿がある。そしてアンナの回想で話が進み、かっての侍女と再会し今度は主従ではなく友人として関係を築き、父親の伝記を執筆するという流れ。このラストでもアンナはまだ年齢的に若い。うーん、児童書としてはこれでおさまりがいいのかなあ。侍女との再会はよかったけど。
アンナの回想での悪役は主に祖母と弟。弟は策謀家でしたたか。正攻法なアンナは負ける。母親に対する弟の言動は酷いもので、そりゃこの弟になら母も姉も叛旗を翻すわ。

しかし、それよりも何よりもこの作品でもっとも許せないのがニケフォロスの扱いだ。アンナよりだいぶ年上の、文人としては優秀らしいが覇気のないおっさんなのだ。アンナとの心の通い合いもない。いやいやアンナとニケフォロスってそんなに年離れてないでしょ?ラブラブなのは漫画の脚色なのかもしれないけど、少なくとも何人も子ども産んでるのでちゃんと普通の夫婦としての交流はあったでしょう。まあ、この夫だからこそ「ニケフォロス動かず」がしっくりくる、といえばいえるけど。

ということで、漫画の補完になるかと思ってたら期待はずれだった。参考にするなら専門書を読むべきだった。佐藤二葉さんがいろいろあげているけど、その中のどれかはいずれ読みたい…時間あればだけど。
Blueskyー青空へ

Blueskyー青空へ

Twitterと距離を置くつもりでも、情報収集には役立つツールなのですっぱりやめるわけにはいかない。
迷っていたら娘からBlueskyを勧められ、以前も引越先として考えたこともあったので、思い切ってアカウントを作成した。
SNSのアカウントをこれ以上増やすのは嫌なのだが、しばらく並行しながら徐々にBlueskyをメインにしていけばいいかな。Twitterで見かけたアカウントもあり住み心地は良さそう。児童書関連のアカウントが少ないのは困るけど、そのうち増えてくることを祈ろう。児童書関連の本屋や出版社は今でもInstagramである程度カバーできる。

何よりアプリのアイコンがTwitter(現X)の真っ黒に比べて爽やかでいい。

みんな青空へ引越そうよ。
「ゴースト&レディ」もうひとつのキャスト

「ゴースト&レディ」もうひとつのキャスト

「ゴースト&レディ」ライブ配信
大満足の配信視聴だったが、前日と千秋楽とでキャストが変わるなら(四季はだいたいひとつの役に複数キャストがいる)千秋楽も見たいと思っていた。でも両日とも同じだった。

主なキャスト
フロー  谷原志音 真瀬はるか
グレイ  萩原隆匡 金本泰潤
ホール  野中万寿夫 瀧山久志
デオン  岡村美南 宮田愛

写真は劇団四季の会報「ラ・アルプ」の表紙
   上段 谷原フロー 萩原グレイ
   下段 真瀬フロー 金本グレイ

配信キャストは両日とも、
谷原 萩原 野中 岡村 だった。

そしてCDでは ホールとアレックスとエイミー以外は配信と同じキャストだった。

名古屋や大阪公演で配信あるなら、今度は別キャストが見られるかもと期待していた。

ところが、昨年12月31日でフローの真瀬はるかとグレイの金本泰潤が退団してしまった。こも2人のフローとグレイはもう見られないのか…。CDもほとんどが配信キャストなので、フローもグレイも彼らとは違う。でも幸いCDのボーナストラックにこの2人の歌唱が一部入っているので、声だけでも少し聴けてよかった。

面白いことに声の印象は、フローの真瀬さんは谷原さんより落ち着いて大人っぽく、グレイの金本さんは逆に萩原さんより若々しい。谷原萩原だと、若いフローの無鉄砲ぶりに老練なグレイが振り回されつつも保護者の立場で見守り、真瀬金本だと若いグレイがフローの強い意志に引っ張られているように感じられた。これが違う組み合わせだと、また違う関係性に見えるのだろうな。面白い!いろいろなキャストで見たくてひとつの公演に何回も通う気持ちがよくわかる。
今年の公演、またいつかあるだろう再演。同じキャストもいれば違うキャストもいる。本当に舞台は一期一会。配信で見られたこと、退団した人の声が少しでも聴けたこと、二度とない出会いに感謝してこれからも舞台を楽しみにしていきたい。
劇団四季「ゴースト&レディ」ライブ配信

劇団四季「ゴースト&レディ」ライブ配信

「ゴースト&レディ」劇団四季ミュージカル
2024年10月10 日 ライブ配信で視聴

2024年5月6日から始まった東京公演、評判がいいので見たいとは思っていたけど、観劇する体力がまだないので諦めていたら、千秋楽とその前日の公演がライブ配信されるという。これは嬉しい。海外ミュージカルだと版権問題で無理だけど、オリジナル作品だから出来る。万が一のアクシデントに備えて前日の方の配信を視聴。

素晴らしかった!原作漫画を読んでからだいぶ経っていたので、程よく忘れていたこともあり、原作との違いもさほど気にならず、ミュージカルの楽しさを目一杯楽しむことができた。舞台ならではの演出にわくわくし、芝居の熱さに震え、歌の上手さに感動し、クライマックスでは思わず涙がでた。ああ、舞台ってこうなんだよね、何も原作どおりでなくていい、こんな作品に仕上げてくれて感謝しかないよ。舞台オリジナルの設定変更を加えながらも、原作の良さを充分生かした作品になっている。これは原作者の藤田和日郎も嬉しいだろうなあ。曲が全部オリジナルなので、どれかひとつでもいい歌があればと思ってたけど、クリミアへ行く歌「走る雲を追いかけて」とかゴーストとのデュエット「不思議な絆」とか耳に残るメロディがあり、サウンドトラックCDを早速購入。聴きながら舞台を反芻している。

原作との違いは色々ある。まず人の頭の上の生霊がない。これはいいと思う。原作どおりにやったらフローの家族の場面なんて妖怪大戦争、スタンドバトルになってしまう。
逆に付け加えられたのは、婚約者のアレックスとフローに憧れて看護婦に志願するエイミー。また原作と少し違うのがフローの最大の敵ジョン・ホールとゴーストのデオン・ド・ボーモン。どちらも原作では絶対的な悪といった存在で、圧倒的な力の差がありフローもグレイもとても太刀打ちできないと絶望するほど。それがこちらでは人間味があり、悪役というにはややしょぼい。これはワンチャン倒せるかもと思わせる。特にホールは小物感があり、むしろデオンの方が存在感ある。何しろ姿を見せるのが1幕最後の場面で(声だけはしてた)、それまでのフローとグレイの余韻をぶっ飛ばして場をさらってしまうインパクト大。“待たせたな、ラスボス登場”って感じ。デオンさまってばかっこいいのよ。
ホールがフローに「なぜ何の不自由もない裕福な娘がこんな仕事をする?偽善だ。理解できない」って言うけど、これ『サフラジェットの病院』でも思ったけど、裕福だからこそ余裕があるからこそ出来るんだよね。それでもフローほど不屈の精神でそれを全う出来る人はそんなに多くはない。そこがフローの強さ。ホールが原作より弱そうに見えたのが最初は物足りなかったのだけど、フローが彼を打ち負かす強い意志の力を持っていることを表すために、必要な変更だったのかなと思う。

原作で感動したところ。ホールの部下の最期の言葉「命令に従っただけ」にフローが感じた怒り。「命令にただ従ううちに心が麻痺する。これが戦争の本当の恐ろしさ」この言葉全世界の人に聞かせたい!
またフローがホールを撃つ前のコマで、ボブが「…うん いいよ…」と言うんだけど、そこのボブが可愛いくて可愛くて、いいよって何が?と思っていたら、グレイがフローに人殺しをさせないようにするためだったところ。ここでようやく原作では冒頭の部分とつながる。ここの構成の上手さ!

舞台クライマックスでグレイを失ったと思ったフローの叫び「今よ、今なのよー!」原作でもあるこの叫び、舞台での渾身の叫びを聞いた時ボロボロ泣いてしまった。

ラストシーン、グレイがフローの魂を天上に導くときの歌「サムシング・フォー」
「♪〜何かひとつ古いもの 何かひとつ新しいもの 何かひとつ借りたもの 何かひとつ青いもの〜♪」この青いものが青空っていうのいいなあ。
この「サムシング・フォー」原作ではフローの幼い頃母親が教えてくれ、人間だった頃のグレイが恋人に捧げ、そして最後にグレイがフローに歌う。舞台では最初にアレックスが歌い、最後にグレイが歌う。アレックスの存在はこの歌のためだったのかしら。(「サムシング・フォー」は昔「大草原の小さな家シリーズ」で、ローラがアルマンゾと結婚するときに知った)

なんかいろいろありすぎてまとめきれない。でもとても幸せな時間だった。出来れば生の舞台を見たいけど、東京公演はもう終わり、今年名古屋と大阪で公演する。でもこの作品きっとまた再演するだろう。その時に、いつになるか分からないけど、行けるといいな。その前にまたライブ配信あればぜひまた見たい。

ミュージカル版を見て原作を読み返して、これはやはり原作が良いからなんだとあらためて思った。そして舞台制作陣が原作をリスペクトしてくれたから、こんなに良い作品になったんだと思う。これから再演を重ねて、どんどんブラッシュアップしていってほしい。
『アンナ・コムネナ』全6巻

『アンナ・コムネナ』全6巻

『アンナ・コムネナ』佐藤二葉・著 星海社
2021〜−2025年
待ちに待った最終第6巻昨日届いた。

表紙のアンナ様〜!1巻と同じ構図、お年を召されたお姿もお美しい〜(つい敬語)

辛い展開だろうと覚悟していたけど、案外そうでもなくクーデター失敗後穏やかに過ごされたのだなと安心した。なるほどWikipediaにある「ニケフォロス動かず」をこう描くのか、唯一ここだけが辛い場面。そしてここで3巻の伏線回収、たぶんここで使うと予想してた通り。ヨハネスの寛大な処置はこの他にピロシュカちゃんの進言もあったのね。いい子だ。ピロシュカは最初からヨハネスのことを「カロい!♡」て言ってたから「カロヨハネス」(うるわしきヨハネス)の名付け親でもある。(と思っておこう)

それにしてもこの作品をこの手法で描き切った作者はすごい。前作『うたえ!エーリンナ』(これも大好き)もそうだったけど、1話1ページという短い中にきちんと史実を描きキャラを立たせ、その上全体の物語がちゃんと進行していく。これだけ多くの登場人物を描き分け、その人物の幼い頃から老年までも描き分けている。あまりにも数が多く同じ名前も多いので見分けがつかない人もいるけど、過去の話を見直してみるとちゃんとその人物が描かれていて、「ああ、これがあの人だったのか〜!」と気づかされる。全ページカラーの絵も美しく、特に衣装が美しく見ているだけで楽しくなる。

まだまだいっぱいあるけど、とりあえず完結おめでとうございます!
『ゴーストアンドレディ』

『ゴーストアンドレディ』

『ゴーストアンドレディ』上下 藤田和日郎・著 講談社 2015年
「黒博物館」シリーズ第2弾。
このシリーズもこの作品も知らなかったのだけれど、劇団四季がミュージカル化すると聞いて俄かに興味を持ち読んだ。
作者の藤田和日郎の作品はもう20年以上前『うしおととら』を読んだことがあるが、それ以降はどんな作品を書いているかも知らなかった。『うしおととら』は最初少年漫画の妖怪バトルものだと思って敬遠していたけど、読んでみたらなんとも切ない物語だったのを覚えている(実は詳しい内容は忘れていたが)。事前情報で「レディ」がナイチンゲールだと知り、「また人間と人外のモノとの話なんだな、でもナイチンゲールとモノノケをどう絡めるのだ?」と思っていた。

冒頭からゴースト登場、ナイチンゲール(フローと呼ばれている)との出会いから語り始める。劇場に取り憑いたシアターゴースト<灰色の服の男>通称グレイ。彼の元に現れ自分を殺して欲しいと頼むフロー。なんとも衝撃的な出会い。フローには人間に取り憑いた生霊が見える(なぜか自分の生霊は見えない)その生霊の凄まじさ、絵が上手いからまあその凄まじいこと。そんな醜悪なモノ見えてたら正気ではいられない。フローはそんな中でも自分に与えられた使命、人々を救いたいという思いに突き動かされ看護婦(当時)を志す。しかし貴族であるが故に家族からは許されない。やっと自分がすべきことが見つかったのにそれが許されず、なんの役にも立てないのならもう死ぬしかない。でもキリスト教徒なので自殺はできない、人に頼むとその人を殺人者にしてしまう。だからゴーストに殺してもらいたい。いやちょっと待て、結構勝手だなそれ。強いぞフロー。そしてグレイが家族の生霊を懲らしめたことで一瞬正気を失った家族の許しをまんまと得て、自分の道を進むことができた。いよいよナイチンゲール伝説のはじまりだ!
考えてみるとナイチンゲールのことは子供の頃に偉人伝の人として名前を知り、クリミア戦争で傷病者を看護した、ということしか知らなかった。看護婦の鑑、白衣の天使というイメージだけで実際の功績までは深く知ろうとまでは思わなかった。この作品がどのくらい史実に正確なのかはわからないが、彼女が立ちはだかる障害困難に果敢に立ち向かい、自分の信念を貫き通したことが、迫力ある絵で熱く熱く描かれぐいぐい読ませる。感動の物語とバトルものが違和感なくマッチしている。上手いなあ。
これをどうミュージカル化するのか?できるのか?劇団四季のミュージカルがとても楽しみになった。
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