日々の雑記
『きみの話を聞かせてくれよ』

『きみの話を聞かせてくれよ』

『きみの話を聞かせてくれよ』 村上雅郁 フレーベル館 2023年

ある中学校のほぼ1年間の物語。1年から3年の生徒たちの群像劇。7つの話それぞれのエピソードに中心となる生徒がいて、でもみんなが全てのエピソードにかかわり、にぎやかに話が進むさまは、ほんとうに中学の教室、校内にいるようで懐かしい。

ああ、そうだったなあ。この瑞々しくやっかいな気持ち。中学生かあ。
揺れ動き行き場のないいらだち、自分勝手に傷ついて、人を傷つけたことで自分もまた傷つく、青くさいけどだからこそ純粋さがまぶしくて。残念だけどもうわたしにはこういう感性はない。この世界はずうずうしくならないと生きづらいから。みんなみんな頑張って生きるんだよ!と声援を送りたくなる。

全編を通して不思議な存在感を示す2年生の黒野くん。最初「黒野」という名前が出てくるたび黒野→クロノ→クロノス?とついつい連想してしまい、この子が全ての鍵なのか?と深読みしていた。でもこの子は「クロノス」ではなく「クロノラ」だったんだ。クロノラ→くろノラ。
その黒野くん
「人間ほどおもしろいものほかにはない。どいつもこいつも、なんだかんだ、あれこれめんどくさいもの抱えて、それにしばられ動けなくなったり、逆にふりまわされたり。でもそういうのって、いとおしい」
これからもみんなの話を聞いてあげてね。

『りぼんちゃん』の時はあまりに入れ込んで苦しくなるほどだったけど、この作品はもっと落ち着いてそっと外から見守ることが出来た。この差は何なのか。小学生と中学生の違い?『りぼんちゃん』が扱っていた問題が深刻で辛かったのか?中学生はやはり世界が広がるから、その分関わる人も増えてなんとか気持ちの閉塞感が薄まるのかもしれない。
『りぼんちゃん』は読み返すのが辛いのだけど、こちらはむしろ読み返して反芻したくなる。この子たちのために未来が明るいものでありますように。そのために大人たちはもっと頑張らなくては。
村上雅郁の本 『りぼんちゃん』他

村上雅郁の本 『りぼんちゃん』他

以前つけていた読書ノートを見つけた。その頃思いたって、読んだ本の記録を少しでも残しておこうと書いていたのだ。いつからつけなくなったのかとたどっていったら、コロナ感染した頃で止まってた。その後リフォームの為の引っ越しとか入院とか体調不良とかで、すっかり記録が止まっていた。読み直してると、忘れてることの方が多くて、やっぱり記録は残しておくものだなと思った。

簡単なメモが多いその中で、ものすごい熱量で書いてあるのが、村上雅郁の『りぼんちゃん』だった。詳しい内容は書いてなくてただただ感情のままに書き殴ってあった。何だこれは。
お行儀よくまとめた文を読むより、めちゃくちゃだけど、胸と瞼が熱くなる。書き抜いてみよう。

村上雅郁の本は当時は市の図書館には入ってなかったので『あの子の秘密』と『キャンドル』は他館から取り寄せてもらって読んだ。(今はこの2作品も推薦図書になったこともあり、所蔵している)少しだけ感想メモがあった

『あの子の秘密』2019年 フレーベル館
 なんかみんなそれぞれ秘密があったけど、意外な子の秘密に「ああ!」となった。

『キャンドル』2020年  フレーベル館
 村上雅郁の本は心にぐさぐさくる。構成も上手い。ずっと追いかけたい作家。

『りぼんちゃん』は新刊の時にリクエストしたので運良く購入してくれた。

『りぼんちゃん』2021年 フレーベル館

タイトルと表紙のかわいい絵でだまされるな!とんでもない苦いクスリだぞ!
子どもだから大人にまじめに相手にされないってつらい。本当に精神的虐待を受けている理緒はもちろんだけど、朱里の描写に思い当たることがいっぱいあって辛い。これ全ての子どもに経験あると思う。
言いたいこと、思ってること、正確に伝えられなくて、そのうち思ってもいないことを言ってしまい、呆れられ、ますます相手から(親からも姉からも友人からも)侮られる存在になってしまう。悔しくて悲しくて、読んでて何度も涙が出てしまう。大人は忙しくてかまってられないとか言い訳だ。いや少しは本当か。自分はこんな大人に絶対ならないと決心していたのに、いつのまにか同じことを自分の子どもにもしている。反省。いや、親になるといろいろ忙しいんだよと言いたいけど…それは本当に言い訳だ。

朱里の言葉がいちいち突き刺さる。

ーわたしの言葉なんてまともに聞いてくれない。体がちいさい、子どもっぽいから軽んじてじていい存在だとみなされる。困っていてもどうせ大したことないと思われる。大人になりたい。だれかを守れる人になりたいー

ーひどいよね、子どもだから何もできないのに、子どもだから助けがほしいのに、だからもういい。大人のことはどうでもいい。どうせ助けてくれない。だったら自分で何とかするしかない。
聞いてほしいときは無視しておいて、子どもだからってあなどっておいて、虫がよすぎる。わたしたちそういつまでもおとなに期待なんかしてあげないんだからー

でもこの子はちゃんと一歩を踏み出す!

ーどうせわかってもらえないじゃダメ。わかってもらえなきゃいけない。話して、伝えて、おとなたちを動かさないといけないー

そして自分の説明では両親は聞いてくれないので中学生の姉を頼る。この姉もたいしたもの。この案件は児相に報告すべきという。そして厚生労働省の「子ども虐待対応の手引き」を調べあげる。

ーこの国にはちゃんと子を守る制度があってそのためにたくさんの大人たちが働いている。だからまかせてみよう、信じてみよう。
この世界ってサイアクなおとながたくさんいて子どもは傷つけられてばっかりで、ほんとうにいやになるけど、子どもが信じる価値のある大人だっている。いるところにはいるんだよ、ちゃんとー

わたしたちはこの言葉に恥じない大人でいなくては。

このままだとあまりに大人の分が悪いので、朱里の父親の言葉でしめよう。
「子どもの心を大事にできるおとなでありたいよな。がんばらなくちゃ」
井上芳雄「奇跡の夜に」を歌う

井上芳雄「奇跡の夜に」を歌う

WOWOWで「芳雄のミュー・オン・ステージ2024」(2024年10月16日収録)を見た。

その中で井上芳雄が「ハロウィンが近いので、幽霊とかゴーストとか悪役とか、そういう曲をメドレーで歌います」と言って歌いはじめた。
そのイントロを聴いた途端「え?これ?ゴースト&レディじゃん?!」と驚いた。確かにテロップに「奇跡の夜にーゴースト&レディ」と出ていた。まさかここで「ゴースト&レディ」の曲が聴けるとは!しかも井上くんの歌で!
歌唱はさすがでした。まあ上手いこと上手いこと。四季の俳優さんが下手だったわけでは決してない。しかし芝居の中でなく純粋に歌だけのこういう場面では、どうしても井上くんの歌唱力に耳を持っていかれる。実は彼の声と歌い方はそれほどわたしの好みではなく、歌によっては合わないなあと思うこともあるのだ。でも今回はとてもよかった。いいもの聴かせてもらいました。

今、帝劇閉館前の最後の演目、帝劇コンサートやってて、井上くんは全日程に出演してる。ライブ配信があることを知って、22日と千秋楽の28日の分の視聴チケットを購入した。楽しみだ。
『ぼくの中にある光』

『ぼくの中にある光』

『ぼくの中にある光』
カチャ・ベーレン・著 原田勝・訳 岩波書店 2024年


嵐のような心を持て余す活動的なゾフィア。暗い所が怖く大きな音に怯えて引きこもりがちなトム。同じ11歳でそれぞれ父親母親のひとり親家庭。親同士が再婚して同居するようになった2人の戸惑い、なかなか縮まらない距離。交互に語られるこの2人の独白で物語は進んでいく。
独白は断片的に語られ、日常生活を淡々と追っていく。断片がだんだん形になってきて徐々に2人の内面がわかってくる。トムの事情は父親からのDVがトラウマになっていて、読んでて辛い。母親に心配かけたくなくて話せないのが余計に。これは誰か気づいてあげてカウンセリングが必要な案件だと思う。
親の再婚で急きょ同居が決まり、少しずつ進んでいた事態が一気に進む。この再婚少し急ぎすぎ。その急ぐ原因が母親の妊娠とは。親といっても1人の人間だから自分の幸せを考えるなとは言わない。でももう少し子どもに気を配ってほしい。(以前読んだ『今にヘレンがくる』の親たちはそれはもう勝手だった。自分の仕事で頭がいっぱいで、すべてをこどもにおしつけるひどい親だった。この作品ではそこまでひどくないけど)案の定2人はなかなかこの変化を受け入れられない。
ただこの強引とも思える同居が意外にも効果が出てくる。トムはゾフィアの仲間たちが自然体で接してくれるので、少しずつ心がほどけていく。また父親の提案で、2人が一緒にボートを作っていく過程でだんだん打ち解けてくるのはよかった。そんなことで解決はかろうとするなんて、と最初は醒めた気持ちで読んでいたが、確かに体を動かして何かを作りだす、その没入感や達成感は心を素直にしてくれるだろう。これらのことは引きこもっていたトムの方により変化をもたらしていくが、その分ゾフィアの鬱屈がたまっていく。
ゾフィアとトムが自分たちのことをお互いに打ち明けあい、心が寄り添えたと思える瞬間があった。でもそのひとときが過ぎるとまた壁が出来て離れてしまった。この部分はとてもリアル。何かの拍子に素直になれる時があり、その後猛烈にそのことを後悔することってある。それを的確に表現してあり、とてもうまいなあと感心した。
クライマックスの海のシーンはすごい迫力で、ゾフィアとトムの心の嵐がそのまま海の中に吹き荒れたようだった。

子どもの誕生と病気の判明と回復。これですべてが解決するのは安直に思えるけど、赤ちゃんの誕生はやはりドラマチックだし、命の尊さを感じさせてくれる。トムにも親切なカウンセラーがついてくれてようやく安心した。家族で迎える海辺のラストシーンはとてもよかった。
『他者の靴を履くーアナーキックエンパシーのすすめ』追加感想

『他者の靴を履くーアナーキックエンパシーのすすめ』追加感想

『他者の靴を履くーアナーキックエンパシーのすすめ』ブレイディみかこ・著 文春文庫 2024年

先日読了した後、とんでもないことに気がついた。何と目次の前の「はじめに」を読んでいなかったのだ。読んでいればエッセイでなく「エンパシー」についての考察本だということを最初から理解して、ある程度身構えて読んでいただろうし、最初の戸惑いはもっと小さかっただろう。
感想自体はそれを読んでいてもいなくても大して変わらないが、自分の勝手な思い込みが内容に入り込むのを遅らせたのでそれが残念だった。

読書会で言われていたけど、エンパシーの入門書だという言葉に、なるほどと思った。頭を悩ませたさまざまな文献は、もっと知りたければこれを読めばいいという親切な案内だったのだ。
そういう定義についての部分より、具体的な事柄人物がでてくるとやはりわかりやすくなる。また著者の経験からイギリスの幼児教育の現場でなされる「感情を言語化することを教える」部分にはとても引きつけられた。確かにこれは自然に身につくこともあるだろうが、ある程度訓練で皆に身につけられる。日本で導入するのは無理かな。

「エンパシー」の定義については、すこしずつ言葉と表現を変えて何度も出てくるけど、結局はこれかと思ったのが

「自分自身が感情的に巻き込まれて判断力に影響をおよぼすことなく、他者の感情を理解する能力」

感情的に巻き込まれる、という文言が耳に痛い。
わたしは若い頃「自分の事ばかり考えないで、人のためになる生き方をしなさい。人を思いやりなさい」とことある事に言われていたので、反発しながらも自然とそういう考えかたになり、気がついたら自分より他者を優先する習慣がついていた。その時今度は「お前には自分というものがないのか」と非難された。

それこそ「他者の靴を履くこと」と「他者の顔色を窺う」ことが紙一重になり混ざりあってしまった苦い経験だった。

まず自分の靴をしっかり履いていないと、他者の靴を履くことは出来ない。つくづくそう思う。

この本で「アナーキー」の本来の定義を知ることが出来たのは大きい。ではアナーキーをもっと学び実践していけば、正しいエンパシーを身につけることができるのか。それはこの今の社会をより良くしていく力になり得るのか。はっきりとはわからない。

少なくとも「わたしはわたし自身のもの。誰の支配も受けない」と堂々と言えるような生き方をしたい。

この言葉は先月読んだ児童書『迷い沼の娘たち』の最後に出てきた言葉と重なる。こういうつながりがあると読書がより楽しくなる。
店を作るー漫画『またのお越しを』から思うこと

店を作るー漫画『またのお越しを』から思うこと

わたしが『またのお越しを』が気になったのは、着物の話だけでなく店を作る過程が読めることだった。

カフェを併設した和小物の店。

ああ、兄がやりたかったのはこういう店だったのかなと思う。まだ兄もわたしも学生の頃、兄が喫茶店と呉服屋を合わせた店が出来たらなあ、と言った事があって、なんかいつも流行りに敏感な兄のちょっとした思いつきにみえた。

外商で顧客を回り、逸品ものを売るのがその頃の母のやり方だった。店舗だと家賃、光熱費、人件費がかかる。身ひとつで出来る外商で顧客を開拓していた。身軽な分、常に何かしら顧客に働きかけ、身銭をきり付き合いを絶やさぬようにしていた。

今思うと兄も気の毒だった。母の商売の仕方は母の才覚あってのことで、兄がどれだけ努力しても継げるようなものではなかった。わたしと弟は自分たちは母のようには絶対出来ないと早くから悟っていたけど、兄はなまじ小器用である程度は出来たため、期待されてしまったのだ。しかし母の客は母以外からは買わない。代替わりしても兄の客にはならなかった。
母は兄を手伝いとして連れ回せば兄が仕事を覚えると思っていたのだろう、兄を手伝いとしてしか扱わず、兄はそんな扱いに不満を持ち、2人の言い争いもあった。年を取り体がきつくなった母には気の毒だが、もっと早くから兄を手放せばよかったと思う。そうすれば兄は自分の道を模索し進んでいけただろう。選択肢の一つにカフェ併設の呉服屋もあったろう。

だから「くくりや」の開業には興味あった。はたしてそんなに上手く店をはじめられるものなのか。起業に向けての勉強から、着物についての勉強、お店の場所探し、融資の申請、内装業者の決定、仕入れ先の確保、などなど。本当に開業するとなったら、まだまだやることは多いだろうしハードルも高い。ついつい自分に引き寄せて、兄ならどんな店にしただろう、ここはわたしが協力できるかな、などと楽しみながら読んでいた。
想像するだけなら簡単、いずれ部屋の片隅に和小物コーナー作って、日替わり週替わりで、手持ちの着物や小物を飾って、それを見ながらお茶するのもいいね。そんな夢を与えてくれた作品。
『またのお越しを』7巻

『またのお越しを』7巻

『またのお越しを』7巻 おざわゆき・著 電子書籍

Twitterをチェックしてなかったので『またのお越しを』7巻が配信されていたのに気づかなかった。紙の書籍で4巻まで出た後電子書籍だけになってしまい、がっかりしたけど続きを読みたくて購入。hontoのクーポン使って紙より安く買えるのがせめてものいいところ。全巻紙で揃えたかったよう。著者の投稿を読むとたぶん次巻で完結する。

第31話から35話まで収録。ようやく杜紫さん登場。この巻は彼が中心。拗らせ灯の心をほどくのがまさか彼だったとは。杜紫さんの退職にショックを受けてる灯がかわいかった。
カゲリが杜紫さんと枷耶子が似ていると指摘してたけど、ああなるほど。枷耶子とのえるに杜紫さんを加えて「くくりや」本来の姿でここから再スタート。ほとんど素人の2人に経営者失格の1人、あぶなっかしいけどだからこそ手を貸したくなるのか。カゲリが灯に気づいてほしかったのはこういうことなのかな。まあ上手くいきすぎてるとは思うが「おはなし」だし、ここにくるまで色々大変だったから素直に喜ぼう。
しかし恋愛問題だけは入れないでほしかったよ。頼むから余計な要素をぶちこまないでください。
あとずっと気になっていたのは、着物や和小物にカフェで出す飲食の匂いが移らないかということ。飲み物とスイーツくらいだからいいのかもしれないけど。カフェスペースと品物の棚の距離を充分取って換気もしっかりしておかないとだめじゃないかと思うのだけど、そんなにあのフロア広かったけ?でも3巻で内装の相談していた時、誰もそれを指摘してないので、そういうのでありなのか。
その3巻で龍郷さんが店のコンセプトを「のえるの世界を具現化する」って言ってたけど、この物語はのえるが動かしているなあとつくづく思う。お店作ろうと言い出すし、お金ないのにさっさと有松に行っちゃうし、営業電話かけてきたルカちゃんに着物の講師頼むし。そのルカちゃんの縁でカゲリさんと知り合うし、茶屋辻さんを送って行ってそのまま賃貸の話に持っていくし。枷耶子だけではとても無理だった。登場時はあまりのルーズさにイライラしたけど、いいコンビだったんだなと思う。

描かれている着物や小物が可愛くて、つい自分も手に取りたくなる。わたしがリフォームのあと、部屋に着物や小物を飾りたいと夢想したのはこの漫画の影響である。しまいこんでいるより、実用でなくても飾って見て楽しむだけでもいいのではと思ってしまうのだ。
『他者の靴を履く』をかけ足で読む

『他者の靴を履く』をかけ足で読む

『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』ブレイディみかこ・著 文春文庫 2024年

土曜日にzoom読書会があり、その課題書。今回はノンフィクション。うっかりエッセイと勘違いしていて、軽く読めるだろうと呑気にかまえていたら、とんでもなかった。娘も待っているのでなんとか今日中に読了しようと、超特急で2日で読んだ。もっと真面目に読むべき本なのにごめんなさい。
まずエンパシーという言葉をさまざまな文献を引用して説明していて、ここらへんで目はすべるは頭に何も入ってこないは、で正直「無理、もう無理!」と諦めようとした。
それでも自分の知っている言葉、人物、事柄が出てくると、ようやく少しずつ頭に入ってくるようになった。具体的にはサッチャーのあたりから。

まだまだ考えをまとめるまでいかないので、気になった部分だけ書き抜いてみる(そのままではなく、自分なりの言葉に置き換えてる部分あり)

「エンパシー」
他者の感情や経験などを理解する能力→能力なので身につけるもの 一つのスキル

「シンパシー」
共感、同情、支持、理解など、内側から湧いてくるもの

「題名の意味」
靴、とは自分や他者の人生であり、生活であり、環境であり、それによって生まれるユニークな個性や培われてきた考え方。他者の靴を履くとは、その人になったつもりで想像力を働かせてみること。

「アナーキック・エンパシー」
アナーキーとエンパシーは繋がっている。アナーキー(あらゆる支配への拒否)とセットでなければエンパシーは闇落ちする。

「自助」とアナキストたちが標榜する「自立」とは違う
自助→自分で自分のことは何とかする
自立→誰からも支配されない

「アナーキー」は暴力や無法状態と結びつけて考えられやすい。しかし、その本来の定義は、自由な個人たちが自由に協働し、常に現状を疑い、より良い状況に変える道を共に探していくことだ。(わたしもアナーキーのことはそう思っていたので、本来の意味を知って目からウロコだった)


その他、サッチャーのことを、シンパシーはあったがエンパシーのある人ではなかった、というところや、トランプはエンパシーの力学を上手く利用してきた、彼は他者からエンパシーを集めるのが得意、というところも印象に残った。
また坂口安吾の『堕落論』も出てきて懐かしかった。『堕落論』は一時期愛読書だった。

金子文子や伊藤野枝の名前と共に、エマ・ゴールドマンの名前があり、この人はミュージカル「ラグタイム」とその原作の早川文庫『ラグタイム』に登場していたことを思い出した。


とにかく自分の理解力が追いつかないなかで必死に読んだので、読み逃し読み違えてる部分も多いだろう。それでもこんな機会でもなければ絶対読まないし、途中で投げ出していただろうと思うと、この作品に出会えたことを感謝したい。土曜日の読書会までにもう少し自分の考えをまとめたい。
眼科受診

眼科受診

2か月に1回の眼科受診の日。予約していったけど受診終わって会計まで1時間、薬局でも30分待って結局お昼過ぎてしまった。
この眼科は耳鼻咽喉科に併設されているので、会計はそちらの会計もあり、薬局はその耳鼻科眼科に加えて近隣の整形外科の患者さんも利用しているので、どうしても時間がかかる。

前は違う眼科で受診していた。眼圧が高くて15年前から点眼薬処方と、定期的な視野検査をしていた。2年前自転車で転んで頭の怪我で入院した後、しばらくの間ふらつきがあり、体調が安定するまで受診を控えていた。行き帰りや診察室での移動の時転ぶ危険があったので。手持ちの点眼薬が切れて、それだけ家族に取りに行ってもらおうと電話でお願いした。ところが、ちょうど先生が病気で入院していて、前回の受診から時間が経ってなければ薬だけも出せるが、その時点で2ヶ月経っていたので、診察なしでは点眼薬だけ出せないとのこと。先生の退院を待つか、違う眼科に行ってくださいと言われた。

それで今の眼科に行くことになった。予約ができることと、特に異常がなければ2ヶ月に1度の受診でいいので(前の所は毎月)こちらにしてよかった。

前の先生は腕はいいという評判。確かにそれは感じたが、看護師さんに声を荒げていることがよくある。自分が優秀だから人がモタモタしてるのが我慢ならないのだろう。でも待合室までその声が聞こえてきて、なんだかいたたまれない気分になる。患者にもその態度で威圧感があり、ちょっと質問すると不機嫌な声がかえってくるので緊張する。
今の先生はとても穏やかなので、対面してても安心していられる。病院に行くということはそれだけでストレスなのだから、やっぱり気分よく受診できた方がいい。
リニューアル

リニューアル

このブログをはじめたのは2014年4月からだったが、Twitterをはじめた2018年11月からずっと休止状態だった。Twitterから離れたくて、今年1月からまた再開した。長く放置してたからもう使えないかなと心配してたけど、以前と同じように書き込めたので、設定も特にいじらずそのまま使っていた。
それが昨日ふとブログ設定のテンプレートを見て、自分のと違うことに気がついた。テンプレートが更新されていたのだった。試しに更新してみると、写真と文字の配置がこの方が読みやすいし、カバー画像も設定出来るようになっていた。ちょっと嬉しい。リニューアルで気分も新たにまたはじめよう。
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