日々の雑記
世界の終わりの七日間

世界の終わりの七日間

ベン・H・ウィンタース/著 上野元美/訳
早川書房 2015年刊
三部作の最終話。いよいよあと一週間に迫った終わりの日。ヘンリーが今回探すのは妹のニコ。正直今までの彼女の言動は好きにはなれないし、仲間たちとの穏やかな日々を捨ててまで探し出すこともないのにと思っていた。でも同行者のコルテスの言うとおり、彼は何を見ても妹を思い出さずにはいられない。それは仕方ないことなのだ。彼にとってたった一人残った血縁者である妹と、世界の終わりにはせめて一緒にいたいという気持ちは、痛いほどわかる。そして彼と彼女はやはりよく似ている。どちらも自分の信じるものに(方向はまるで違っても)頑固に諦めず突き進む。
はたして世界の終わりは本当に来るのか?ニコの信じる回避の方法は本当にあるのか?結論はわかり切っていたとはいうものの、何かに希望を見出さずにはいられないのが人間だ。終わりまでにどう過ごすかも強制はできない。こんな時でも、というかこんな時だからこそ、自分の欲望に忠実に、悪魔的に振る舞う輩もいる。それもまた人間の姿だ。
アーミッシュは意外だったが、終末の絶望感漂う世界で、穏やかに生きる人々が居ることにリアリティを持たせられる。たとえそこに欺瞞があろうとも、苦痛を引き受ける人間のぎりぎりの愛情がある。ラストシーンが美しく厳かな一枚の絵のようだ。
また、桜の国で

また、桜の国で

須賀しのぶ/著 祥伝社 2016年刊
ポーランドについては恥ずかしいことに「ポーランド分割」って世界史にあったっけなあ、程度の知識しかなかった。アウシュビッツがポーランドにあったことも割と最近まで知らなかったし、「カティンの森事件」も映画が公開された時に初めて知った。(映画は未見)
ポーランド分割については、昔池田理代子の漫画「女帝エカテリーナ」(原作アンリ・トロワイヤ)で読んで、ひどいことするなと思ったし、その後やはり池田理代子の漫画「天の涯までーポーランド秘史」も読んで、ポーランドの歴史についてはある程度知っているつもりだった。本当に恥ずかしい。

この作品はわたしの知らなかったポーランドの歴史が、第二次大戦前を舞台に綴られており、非常に感銘を受けた。
1943年のワルシャワ・ゲットー蜂起も1944年8月〜10月のワルシャワ蜂起も知らなかった。冒頭にある大正時代に日本がシベリアのポーランド孤児たちを保護したこと、それにより日本にポーランド・ブームが起きたことなどまるで知らなかった。そのことがポーランド人が日本へ好意を抱く理由になり、帰国した孤児たちにより「極東青年会」が組織され日本との友好に尽力していたことも。もう知らないことだらけだった。
歴史上これから起こる悲劇はわかっている。だから主人公の日本大使館職員の奔走も、痛ましい思いで読んでいた。この主人公外交官だがスパイ並みの活躍をする。しかし外交とは情報戦である限り、あらゆる伝手を使うのは当たり前。主人公の行動はいささか外交官の範疇を越えるものだが、誇張はあっても、あの時代命をかけて戦争回避のため、平和のため尽くした無数の人々が居たことは確かなのだ。そのことは忘れないでいたいと強く思った。

著者の須賀さんは元々こういう歴史ものを描きたい希望があり「神の棘」(ナチス)「革命前夜」(ベルリンの壁崩壊)「紺碧の果てを見よ」(日本海軍)など発表している。コバルト文庫の時から書きたいものはこういうものだろうと感じさせる作家で、一般書に移ってから頑張って書いているなと、応援してきた。いつも設定は魅力的だけど、まだ文章がついていかずもどかしい思いをしてきた。「革命前夜」を読んで、ああようやく一皮むけたと喜んでいた。
本書で直木賞候補になったことを知り感無量だった。受賞はならなかったが、著者の存在を多くの人に知ってもらえて嬉しかった。著者が本当に書きたいものは、ワイマール憲法時代だということを読んだが、ぜひいつか書いてほしい。ただ本人も「需要がない」と言っているが、たしかにまだナチス時代の方が需要あるし、実現は難しいだろうけど、気長に待っていたい。

ポーランドの音楽家といえばショパン。そのショパンの「革命のエチュード」が誕生したエピソードもあり、あの激しい旋律がポーランドの弾圧の歴史に対する苛立ちと怒りをあらわしていることを知った。「信仰も文化も文字も全く異なる国に制圧され、百年以上に渡って奪われ続け」(本書p38より)た国。そしてこの作品の中で、これからまた奪われようとしている国。何度も繰り返し行われる列強による蛮行。今現在も地球のどこかで行われようとしていることを思うと、暗澹たる気持ちになる。
レ・ミゼラブル

レ・ミゼラブル

キャスト表。
みんな歌が上手くて、聴いていてストレスないのは素晴らしい。いろんな組み合わせで鑑賞できる楽しみもあると思うが、どの組み合わせでも一定の水準を保てるって当たり前だけどすごい。日本でのどの演目でもそうであってほしい。
レ・ミゼラブル

レ・ミゼラブル

7/3 帝国劇場にて観賞
「レミゼ」は2010年ロンドンでの「25周年記念コンサート」のDVDを繰り返し繰り返し観てとても満足していたし、本場ロンドンやブロードウェイならともかく、日本版をあえて観る必要はないかなと思ってた。
素晴らしかった!ごめん!すみません!日本版舐めてました。許して下さい。過去の自分殴りたい。
生の舞台の迫力。出現者全員の歌の上手さ。そしてなにより原作の素晴らしさ。人間賛歌の群像劇。だから心を打つ。涙する。もう一度、何度でも観たくなる。何度観てもたぶん同じクオリティで上演出来るのだろう。それがまた素晴らしい。

出演者については、実はエポニーヌの昆さんがちょっと苦手だったので(2013年のキャスト発表の時の歌唱、2014年の「ミス・サイゴン」鑑賞時のキム)心配だった。でもすごくよかった。こんなに上手かったの?とびっくりした。
ジャベールの岸さん、初めての方だったけど、最初からよかった。特に「自殺」が素晴らしくて、演出もよく、思い切り拍手した。「星よ」だけは、ごめんなさい、誰がやっても満足しないだろうと思う。どうしてもフィリップ・クォーストさんの歌唱が好きなので。
バルジャンの福井さんは文句なく素晴らしかった。「彼をかえして」ラストの高音がきれいに伸びて素敵だった。
マリウスの海宝くん、うまいなあ、とあらためて思う。マリウスが恋に落ちたあとの舞い上がりっぷりときたら、いやあ飛び跳ねてたね。
アンジョルラスの上原くん。わたしの基本の「レミゼ25周年」のラミンに負けず劣らず、熱く濃いアンジョだった。あんな力強いリーダーだったら、革命成功しそう。

新演出版は昔からのファンには少し評判悪いみたいだけど、わたしは旧演出を観たことないのでとても満足だった。「カフェソング」で学生たちとマリウスが床に置かれた小さな炎を(女性たちが彼らを悼み置いていった)それぞれが取り上げて、その炎を消すところは、海宝くんの熱唱とともに涙が。
最後に神に召されたバルジャンを司教さまが迎えてくれるのも良かった。(これ映画版でもあった)司教様が肩を抱き、バルジャンが頭を下げる。「よく頑張りましたね」「司教さまからいただいた新しい人生を、懸命に生きて参りました」言葉はなくても二人の会話が聞こえてくる。泣くしかないじゃないの!
カーテンコールで立ちたかったのに誰も立たなくて不思議だったけど、一旦幕が降りたあとまた上がって出演者があらわれた時、客席みんな立ち上がった。これ、こういう決まりなの?自分の感動をあらわすのに手順を踏まなくちゃならないの?とやや疑問。

こういうまっとうな正しいものを観せられると、変態ストーカーや自己中浪費家のお話はちょっとどうかしらと思ってしまう。でも好きですけど。
The Sopping Thursday

The Sopping Thursday

by Edward Gordy (エドワード・ゴーリー/作)
先月ゴーリー大好きな娘が、展覧会が開催されている四日市まで遠征してきた。グッズもいろいろ買い集めてきた。ゴーリーの原書もあり、その中の一冊。
ゴーリーらしからぬというか、不気味なところ、不穏なところが少ない珍しい作品。色がいつもの黒だけでなく、グレー(紙に光沢があるので銀色に見える)も使っていてとてもきれい。こういう作品もあるんだという新鮮な驚き。しかもこの犬、川原泉の「笑うミカエル」のダミアンに似てない?そのせいもあり、ほのぼのいい話なのかと思ってしまう。(ゴーリーがそんなわけないのだけど)
シンプルな英語なので一応意味はわかるが、これも柴田元幸さんが訳してくれないかな。

しかしこの展覧会秋には宇都宮に来るのに、待ちきれず四日市まで行ってしまい、その上また宇都宮にも行く気満々だなんて、どんだけゴーリー好きなんだうちの娘は。そりゃわたしだってゴーリー好きですよ。ジャンブリーズのフィギュアがあったら迷わず買いますとも。うろん君はいらんから、ジャンブリーズの看板作ってくれい。
RENT(レント)

RENT(レント)

1996年からブロードウェイで上演されたミュージカルの映画化作品。(2005年 日本上映は2006年) DVDで鑑賞
「ヘドウィグアンドアングリーインチ」と同じく、気になりながらも未鑑賞だった作品。TUTAYAでたまたま「ヘドウィグ〜」と同じ棚にあったので、ついでに借りてきた。

これも歌がいい。冒頭から引き込まれた。未鑑賞の理由として、レント(家賃)を払わない連中の話というので、敬遠する気持ちがあった。正直「ちゃんと家賃は払えよ」という気持ちは変わらず、彼らを無条件で応援する気にはなれないのだが、とにかくたたみかける歌の洪水に圧倒される。こんな歌が多いミュージカルは初めて。これは映画化は難しかっただろうな。このテンポだと舞台の方が向いていると思う。舞台だと1幕と2幕の間に休憩が入ると思うのだが、ノンストップで2時間以上観ていると、途中疲れてついウトウトしてしまった。
だが歌は本当にいい。観てよかった。おかげでストーリーと登場人物もわかり、ミュージカルファンの会話が理解出来るようになるのは嬉しい。映画はこういう効果がある。わたしがミュージカル好きになったのも、映画がきっかけ。その後たいてい映画より元の舞台の方が断然にいい!となるのだが。

先に観た「ヘドウィグアンドアングリーインチ」で登場人物の1人が「レント」のオーディション(エンジェル役)受けて受かった!という場面があったが、その時彼がおかっぱのカツラをかぶっていたのが不思議だったのだが、この映画観てその訳が分かった。
そのエンジェルはめちゃめちゃ可愛かったし、彼以外もキャストはみんな上手くて良かった。イディナ・メンゼルとアダム・パスカルは2008年のロンドンでの「Chess in Concert 」の時より、当たり前だけど若い。この2人を含め主要登場人物8人のうち6人までも舞台初演時キャストだったのが、ファンには嬉しかっただろう。しかしオリジナルキャストではないジョアンナ役の人が、舞台でのオーディションに落ち続けていたと聞いて驚いた。こんな歌の上手い人でもオーディションに落ちるとは。それだけ人材が豊富ということで、ブロードウェイの底力をあらためて感じた。

そして作者のことを知ってさらに驚いた。この膨大な作品を(作曲、作詞、脚本)1人で書き上げた作者の才能と劇的な死(オフブロードウェイ公演初日の朝急逝)には言葉もない。
ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ

2001年 アメリカ映画 DVDで鑑賞

2002年の日本公開時も話題になったし、日本人キャストの上演も何回かあったので、観る機会はあった。でも画像で見るヘドウィグがケバくて歌もロックっぽいし、わたしの好みのミュージカルではないかな、と今まで敬遠してきた。それが何日か前、原作者でオリジナルキャストのジョン・キャメロン・ミッチェルが主演する特別公演が、今年の10月に東京で2日大阪で1日上演されるというニュースが駆け巡った。これはいい機会だから観に行きたいと思い、予習のつもりでDVDを借りてきた。

とにかく歌がいい!DVDの前に動画サイトで「The Origin Of Love」を聴いてなんて美しい曲だろうと考えを改めていたが、他の曲もみんな良かった。これは舞台がとても楽しみだ。
ストーリーに関しては、ちょっと分かりにくかった。いろんな人の感想を読んで、ようやく自分なりに分かったような気がする。愛する片割れを求めるヘドウィグの人生を描いていて、最後は自分のありのままの姿を受け入れることで、自分も他の人々も解放されるってことでいいのかな。舞台ではトミーもヘドウィグと同じジョン・キャメロン・ミッチェルが演じていたそうで、片割れとは自分だったということを表している?そんなふうに色々考えこむほど、まだわたしの中ではうまく消化できていないのだろう。
これは元は舞台なので、映画化の時に少し表現方法が変わってしまったのかもしれない。よけいに舞台を観たくなった。
シンデレラの罠

シンデレラの罠

セバスチアン・ジャプリゾ/著 望月芳郎/訳
東京創元社 創元推理文庫 1964年初版
新訳版が2012年に出たそうだが、図書館には旧訳版しかなかった。
有名なこの作品、気になりながらも未読だった。有栖川有栖の「ミステリ国の人々」で取り上げられていたので、この機会に読んでみた。
この作品の「私は殺人事件の探偵で証人で被害者で犯人である」という紹介文に興味をひかれないわけがない。どうなってるのか?そんなことが可能か?ところが裏表紙にある設定を読み、ああそれなら可能か、と納得した。同時にどこかで読んだような設定にちょっと興醒めしてしまった。いやたぶんこの作品の方が先で後から似たようなものが出てきて、わたしはそちらを読んだのだろう。しかしわたしの単純な予想など越えた展開に(そりゃそうだ)一気に読ませられた。最後の一文でヒロインの正体が分かるらしいが、わたしはうっかり読み飛ばして伏線を見逃した。後でその部分を読んで、なるほどと思ったが、新訳の解説ではどちらとも取れると書いてあるらしい。どうだろう?訳文がちょっと読みにくかったので、新訳でもう一度読んでみたい。

設定を読んだ時思い出したのは、昔読んだ漫画、一条ゆかりの「夢のあとさき」だった。すごくおもしろかった。もちろん違う話だけど、この作品にヒントを得たんじゃないかなと思う。恋愛要素もありサスペンスドラマにしてもよさそうな作品だった。
十三番目の子

十三番目の子

シヴォーン・ダウド/著 パム・スマイ/絵
池田真紀子/訳 小学館 2016年刊
以前読んだ「ボグ・チャイルド」、「怪物はささやく」(著者の原案をパトリック・ネスが書き上げた)のダウドの作品。ダウドは2006年に作家デビューし、活躍が期待されながら2007年に亡くなっている。日本ではダウドの作品は全て死後に出版されている。

静かで美しい神話のような作品。ほぼ全ページに挿画があり、青と黒のシンプルで力強い絵が流れるように続き、一枚の絵物語のよう。それがよけいに神話的な雰囲気を感じさせる。Amazonの原書の書影では左右反転している。
暗黒の神と村との契約。「1人の女の産んだ十三番目の子を、その子の十三歳の誕生日にいけにえにささげれば、十三年の繁栄が約束され、したがわなければ村が滅びる」恐ろしいのはこんな契約を(というより呪いだ)村人たちが受け入れていること。誰が我が子をいけにえにしたいものか。女たちは十二人産んだ後は産もうとしない。それは当然の思いだ。けれどある女の十二番目のお産が双子だったため、そのうちの1人が十三番目の子になってしまう。
自分は嫌だが誰かがいけにえになってくれるのは大いに結構。「十三年の繁栄」という欲望に目がくらんだ村人たちのあさましさ、醜さ。対照的に、愛情で結ばれ運命を共にした家族の姿が美しい。ここにはいつの世も変らぬ人間の姿が描かれている。
最後にきょうだいが踏むエリウの地。著者からの言葉として「”エリウ”は現在のアイルランド(ゲール語名"エール")の古い呼び名」とある。著者の両親はアイルランド系だという。作品に漂うケルトやアイルランドっぽさはそのせいか。
赤く微笑む春

赤く微笑む春

ヨハン・テオリン/著 三角和代/訳
早川書房 2013年刊
エーランド島シリーズ3作目。読み慣れたせいか、今までで1番読みやすかった。今回も過去の物語が挿入されるのだが、それが前ほど煩く感じられず、物語の進行を妨げずすんなり読めた。島の風土と人々の暮らしの描写も相変わらず丁寧で、大きな事件が起きなくても、ただそれだけで充分物語として楽しめる。
いろいろ問題のある家族が出てくるが、それはつまりどんな家族でもそうであるということで、一応いい結果に落ち着いてよかった。
探偵役というかアドバイス役のイェルロフは、冒頭で施設を出て自宅に帰る。別に余命宣告されたわけではなく(まだ頭も体も充分働く)、最後は家で迎えたいという思いで決心する。ただこれが許されるのは、医師や看護師の巡回があり、まだ彼がゆっくりでも自分で体を動かせるから。そういう体制が整っていることが羨ましいが、第1作より確実に彼の老いも進んでいる。次作がシリーズ最終作だそうだが、淋しいけれど、彼と島の人々の物語の行く末を見守りたい。
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