『SFマガジン』2025年4月号 早川書房
「SF少女マンガ特集」というのでいそいそと読む。
冒頭から萩尾望都の『金曜の夜の集会』
これ初めて読んだ時、ブラッドベリ?と思ったのだった。萩尾さん、ブラッドベリの作品いくつか漫画化をしていて、その中に似たタイトル「集会」もあったので。
これ最終2ページが切なくて。今までに何回続いてこれから何回続くんだろう。いつか終わりが来るのだろうか。それは救いなのか破滅なのか。
萩尾さんはやはりすごいなあ、と思っていたら、次の大島弓子でぶっ飛んだ。
『サマタイム』えっ何?これ。どういうこと。えっうわー!
すごかった…。元々大島弓子はこんなリリカルな絵なのに、それに似合わぬアンバランスな怖さがあって苦手だったんだけど。(娘は鋭すぎて怖いと言ってる) 深い深いところを覗き込んだような怖さ。
何だろうな。萩尾望都が文学なら大島弓子は哲学か。
なんかもうこれでお腹いっぱいになった。
あとは「SF少女マンガ作品ガイド」だけ読んだ。
気になったのがこの雑誌の本文、字が小さい!文字が薄い!これじゃあ老人の目にはきつい。情けないけど読めないよ。若い人向けなのかなあ。
『叡智の図書館と十の謎』 多崎 礼・著 中央公論新社 2024年
うーん『レーエンデ国物語』の作者なので期待していたのだけど、それほどではなかった。
ファンタジーだと思って読み始めたが、SFの要素もあり、読み切りの短編10編が一つの長編となっている構成。一つ一つの短編がそれぞれ趣きが違って、短編集としては楽しめたが、その反面全体を通した話には少しのれなかった。電脳関係の用語がわたしには難しかったせいかな。あと、虫が出てくる話は勘弁して。グロいよ。
作者のあとがきで、ブラッドベリ作品へのオマージュのことがのっていたが、どの作品だろう。
第6の話は、まるで古い洋画を見てるような懐かしさがあったが、これも作者があとがきで洋画好きと告白していたので、なるほどと思った。
個々の物語は楽しめるものもあったけど、ちょっと残念な読後感だった。
『この銃弾を忘れない』マイテ・カランサ・作 宇野和美・訳 徳間書店 2024年
スペイン内戦時代(1936〜1939年)の実話を元にした話。
1938年13歳の少年ミゲルは、反乱軍に抵抗して捕虜収容所に居る父親を探し出し、連れ帰るため旅立つ。200キロの道のりを忠実な犬のグレタだけを道連れに歩き通す。険しい自然の脅威、敵方や味方の兵士との遭遇、密告する人、助けてくれる人、さまざまな出会い、困難を通してミゲルは身も心も大きく成長する。
時代背景がスペイン内戦ということで、まず、2つの陣営の呼称に迷った。政府と反乱軍。どっちがどっち?なんとなく圧政に立ち向かうのが反乱軍という印象だけど、このスペイン内線では、民主主義の共和国政府に対して軍が反乱を起こし、ミゲルの父親は民主主義を守るため共和国軍に加わった。ミゲルたちの村は反乱軍に制圧され、内戦自体も反乱軍有利に進んでいるらしい。この事情を理解するまで少し時間がかかった。
母親がミゲルに「父親を探して何とか連れ帰って」と頼んだ時は正気を疑った。この状況で?一度は断ったミゲルも、村の反乱軍の横暴さと、母親の悲しみ家族の気持ちに後押しされ、出発する。
ミゲルの決心は立派だけど、わたしは途中までとても無理だと思いながら、ハラハラしながら読んでいた。次々と襲ってくる困難の中でも、人々との暖かい交流もありほっとする時間もある。分断された国家で誰が敵か味方か分からない状況でも、信じられるものはある。おとぎ話のような顛末だけど、これが実際にあったこととは驚く。
巻末の訳者の言葉で「物語の中にスペイン内戦の時に本当にあったさまざまなエピソードを盛り込んでいる」とあるので、ミゲルに託して当時の人々が実際に経験したことを描いているのだと分かる。
この後史実では反乱軍が勝利しフランコによる独裁政治が1975年まで続く。このことを知ってその後のミゲルたちの運命を考えると、辛くてならない。でも作者の想像通りであってほしい。
作者は内戦を知らない若い世代のためにこの作品を書いたという。
「すべての子どもが、二度と再び戦争を体験せずにすむようにと願っています。」
今の世界を思うと、作者のこの言葉が痛い。
『かなたのif』村上雅郁・著 フレーベル館 2024年
まわりと同じことが出来ず友だちのいない香奈多(かなた)、まわりから浮いている湖子(ここ)、淋しさを抱える2人が出会い交流が生まれる。
2人の視点で交互に語られる物語だが、どこか違和感がつきまとう。この子たちもしかして同じ時空にいないのでは?と見当はつく。その理由が判明してから、自分でも思いがけなくぼろぼろと涙がこぼれた。
村上作品はいつも心に突き刺さるのだけど、泣いたのはこれが初めてだった。いつもは怒りや悔しさが勝るのに。
タイトルの「if 」は「もしも」かなと思ったら「イマジナリーフレンド」の略でもあるのだという。初めて知った。
ではイマジナリーフレンドやパラレルワールド系のちょっとファンタジーな話かと思っていたけど、かなり深い話だった。
香奈多の家庭教師みりんくんの話は難しいけど興味深い。
「もしもの世界」難しく言うと「可能世界論」「様相実在論」。哲学にも、数学にも、物理学にも、それと似た考えがあるそうだ。
ー世界はここだけじゃない。あらゆるものが、あらゆる形で、ここじゃないどこかに、決して手の届かない、遠く遠くかなたに、存在している。そして、それはきっと、ぜんぶぜんぶ、ほんとうのことー
ああ、だから少女たちの名前が「かなた」と「ここ」なのか。
香奈多ーかなたー彼方 湖子ーここー此処
そして湖子が書いている物語の中の、「夢渡り」する黒ネコのドコカ。
もしもの世界とは、現実からの安易な逃避だという人もいるだろう。しかしこの2人はお互いを本当に大切に思い、会いたいと心から望んだから会えたのだ。
出会いと別れ、喜びと悲しみ。たとえ失われても喜びの日々は決して消えない。
湖子の言葉
ー心のそこから大切だと思える人と出会えたよろこび それって、きっと、人間が生きる意味、そのものだったー
香奈多の言葉
ーひとりぼっちが願うのは、自分以外の、どこかのだれかと、出会って、つながること そうやって、心のそこから大切だって、そう思える関係を築くことー
なんだよ、もう、この子たちの健気さにぼろぼろ泣いたよ。うん、君たちは大丈夫だよね。
そして意外にもキーパーソンだった佑実ちゃんと、どんな関係を築いていくのかこれから楽しみだ。
ここ2、3日、あまりにきついニュースに触れて疲弊していて、予定になかったこの本を衝動的に読んで、めちゃくちゃ心が揺さぶられた。
『ホシムクドリがうたう歌』オクタヴィー・ウォルタース・作 潮ア香織・訳 アチェロ 2024年
ネットで見かけて一目惚れして購入。
表紙カバーがクラフト紙っぽくて、つるつるしてなくてぬくもりのある手触り。版画なのでモノクロだけど、ホシムクドリのクチバシと足だけが黄色い。
ー歌をうたおう、ホシムクドリはおもった。
こうやってみわたせば
せかいはすてきなものにあふれているという歌。
それをみんなのまえでうたうんだ。ー
ホシムクドリはさまざまな鳥に自分の思いを話し、鳥たちはそれぞれが素晴らしいと思うことを告げる。
みんなの思いをのせてホシムクドリはうたう。
ーホシムクドリはうたった。
空からみおろす、まるい大地の歌を。ー
ホシムクドリのうたう世界はこんなにも美しい。それを感じられるように生きてゆきたい。
『きつねの橋 巻の三 玉の小箱』 久保田香里・作 佐竹美保・絵 偕成社 2024年
ちょっとこの巻は辛かった。主人公貞道の話より、葉月と姫宮の話が気にかかった。
人ときつね、幼い頃は一緒に遊んでいればよかった。いや姫が庶民だったら、大きくなってもそれほど問題はなかったろう。しかし姫は貴族、しかも皇女の身分で母方も身分高い貴族だ。この時代の貴族の姫なら当然身につけねばならないことが多くある。そしてそれは葉月では教えられない。お付きの女官がどうしても必要になってくる。姫が嫌がってもそれは必要なことなのだ。姫を思う葉月の心根だけではどうにもならないのだ。謎の玉のせいで思いがけなく姫の評判を傷つけてしまった葉月の苦悩。一度は去ろうとするが、姫の「葉月はそのままで、そばにいて」という言葉に、これからも心から姫を支えようと決心する。
姫もわかっているのだ。葉月といつまでも子どものようにじゃれあうことは出来ない。貴族の姫として生きるためには、楽しいことだけでなく、辛いこと、時には見たくないことも見なければならないこと。そんな時、幼い頃共に過ごし、変わらぬ思いで自分を支えてくれる葉月がいてくれたら耐えられる。だから変わらずそのままでいてほしい。
人ときつねの垣根を越えて、変わらぬ2人でいてほしい。だがいつまでこのままでいられるだろうか。姫も成長すれば葉月も成長する。どんな形であれ、支え合う2人でいてほしい。
怪しい玉のこと、あやめ丸のこと、厳しい女官中務のこともおもしろかったのだけれど、もう今回はこの2人の感想しか出てこなかった。
元々道長や、前作では源倫子も出てきたので、斎院を辞したこの姫宮も実在の人物だろうとは思っていた。物語にあまり先入観を入れたくなかったのだけれど、この先の展開が推測できたので、姫宮ー尊子姫について調べてみた。
冷泉天皇の第2皇女で道長と同年の生まれ。十五代斎院を務め母の逝去で辞している。とても美しい姫だったらしい。また作中でもあった「火の宮」と呼ばれていたのは事実だった。
作品では母方の祖父が一条摂政とあったが、これは藤原伊尹のことだった。藤原北家、名門だ。最初に調べておけばよかった。一条邸が寂れた感じなのは、彼の死去により権力が弟の兼家に移っていったためか。皇女であり、母方の出自も申し分なかったのに、あまりこの方のことは知らなかった。
尊子姫のその後は、円融帝、一条帝をめぐる兼家、道長一家の栄華の影で、わたしの目に触れずにひっそり進んでいた。この方のことを知ることができてよかった。この作品に感謝したい。
尊子姫の次代の賀茂斎院が大斎院と呼ばれた選子内親王(村上天皇皇女)。大斎院の文学サロンについては国文科の授業で習ったので懐かしい。
ちょっと余計なこと連想した。もし尊子姫が宮中にあがったら葉月もついていくのかな。そのときは葉月も大人になっていて、妖艶な美女になり、殿方と浮名を流したりして。でもこれじゃ違う話になってしまう。まるで玉藻の前みたい。
玉藻の前といえば、子どもの頃わたなべまさこの漫画『青いきつね火』を読んだ。(岡本綺堂の『玉藻の前』が原作)怖くて切なかった。もう一度読みたいな。
『幸福の王子 オスカー=ワイルド童話集』
ワイルド・作 井村君江・訳 偕成社文庫 1989年
『ベラスケスの十字の謎』エリアセル・カンシーノ・作 宇野和美・訳 徳間書店 2006年
『ナイチンゲールが歌ってる』の作中バレエ作品「王女の誕生日」の原作がオスカー・ワイルドだと知り、本棚からワイルドの童話集を出してきた。この本の中では「スペイン王女の誕生日」とあるのがそれにあたる。そうそうこういう話だった。酷い話なので覚えていたのだ。
その他の話も久しぶりに読んでみたけど、ほとんど不幸に終わる話で驚いた。唯一「わがままな巨人」だけが、ほっとするいい話だった。これ子どもが読んでいいのか?むしろ大人向きではないかと思う。さし絵が美しい。
そしてこの「王女の誕生日」のアイデアの元になったのが、ベラスケスの絵画「ラス・メニーナス」ということなので『ベラスケスの十字の謎』を思い出した。この絵には王女と女官たちの他にたしかに小人らしき人がいる。当時の王宮では道化として小人が仕えていたのは事実だ。この絵の中に描かれた人物は実在していて、身元が特定されているという。ただ1人だけ特定されていない人物がいることと、絵の中に描かれた作者ベラスケス自身の胸にある十字架が謎として残っているという。その謎を解き明かすのがこの『ベラスケスの十字の謎』で、たいそうおもしろかった。
この「ラス・メニーナス」は世界三大名画のひとつということを初めて知った。あとの2つは
エル・グレコ「オルガス伯の埋葬」
レンブラント「夜警」
ダ・ヴィンチ「モナリザ」
えっと、3つあるんですが?
なんでも「ラス・メニーナス」を含めたこの4点から、説によって3点選ばれているとか。そんな面倒なことしないで、素直に四大名画ってことにすればいいんじゃないですか?
そしてどの説でも「ラス・メニーナス」は入っているとか。それだけ「ラス・メニーナス」が評価されているってことかな。たしかにちょっと見ない不思議な構図だと思う。
自治会の役員会に出席した。活発な意見交換があったが、わたしは感心しながらおとなしく拝聴するだけだった。
後半ある件についての対処が議題に上がり、これについても会長はじめ役員方の判断に賛成しただけ。気にはなっていたが詳しい事情を知らないでいたので、この場である程度わかってよかった。役員会に出ていろいろ知ったことも多く、やってよかったと思えた。一年限りだからそう言えるのだけど。
役員の大変さを間近に見ていたので、出来るだけお手伝いしたいという気持ちはある。だだ今年度限りの1年なので出来たけれど、常任となると申し訳ないけど今の体調では無理だ。2年前の怪我がなければ、やれたかもしれないが。
午前中1時間半の会議だったけど、帰ってからぐったり疲れて、夕方まで横になっていた。ほとんど聞くだけだったのにこのありさま。
早めの夕食を終え、6時から帝劇コンサートの配信を見る。途中休憩をはさんで終演は9時40分過ぎ、10時近かった。とても良かったけれど、午前の疲れもあり終演後またもやぐったり疲れてしまった。こんな状態で実際の観劇に行くなんてはたして出来るのだろうか。
ずっと迷ってた『エジプト人シヌへ』を思い切って購入。さあ、読むぞと張り切ったが、返却期限のある図書館本を優先しなければ、と後回しに。
そして図書館に返却に行くと、次のリクエスト本が待っていて、さらに館内を回ってると目についた本があり(おっこれ新刊出てたんだ、とか、今読んでる本にこの本出てたな、とか)ついつい貸出カウンターへ。おかしいな、いっぱい返却したはずなのに、行きと帰りのバッグの重さが変わらない。
そうこうしてる間に『図書館の魔女』の新刊、シヴォーン・ダウドの新刊も届いて…こうして積読本が増えていく。
『ナイチンゲールが歌ってる』ルーマー・ゴッデン・作 脇 明子・訳 網中いづる・絵 岩波少年文庫 2023年
以前偕成社から『トゥシューズ』というタイトルで出版されていた作品。
その時読んだはずなのに、苦しい生活の中バレリーナを目指す少女の物語、ということしか覚えていなかった。いろいろな要素がいっぱいつまっていて、王道少女漫画や連続ドラマを見ているようにハラハラしながら楽しめた。詰め込みすぎかなと思うところもあるけど、最後に大団円を迎えるあたり、ダイアナ・ウィン・ジョーンズの、収集つかないほど広がった話が最後にシュッと収束するさまに似ている。あれほど疲れないけど(あまりに疲れるのでダイアナの作品は少し敬遠するようになったほど)。
バレエについては山岸凉子の漫画でしか知らないけれど、授業の場面などは漫画のシーンを思い浮かべて楽しめた。技術的なことなどは解説がついていてとても親切。王立バレエ学校のオーディションではミュージカル「ビリー・エリオット」のことも思い出した。
ラストでロッティが王立学院前に教わっていた恩師の言葉として「ナイチンゲールをきくのよ、とおっしゃいました」と言う。これがタイトルになっているのだけど、ちょっと抽象的すぎて戸惑う。考えてみた。容姿や才能や生活環境は生まれついたもので変えられない。技術は努力である程度身につけられる。その他に心を豊かにしてくれるものに多くふれなさいと言ってるのではないか。それは決してきらびやかな贅沢なものではなく、ロッティを支えてくれるもの。貧しい中で精一杯の愛情を注いでくれる伯母、隣人、厳しくも暖かく教え導く教師、栄養ある食事を提供してくれる学校の調理師など。自分を支えて愛してくれる人たちへの感謝を忘れず、また自分も相手の支えとなるよう勤めること。それらが自分の糧となり、たしかな技術と相まってバレリーナとしての自分を形作ってくれる。
同級生のアイリーンは裕福な家庭、美しい容姿、才能に恵まれていたけれど、基礎練習をおろそかにし、人の好意を無にする。彼女はナイチンゲールを聞こうとしなかったのだ。
しかしこの「ナイチンゲールを聞く」という言い方は英米では一般的なものなのだろうか。調べたらわかるのかもしれないが、とても素敵な言い方だと思った。
バレエ学校の舞台の演目「王女の誕生日」はオスカー・ワイルドの原作。そういえば聞いたことあるお話だった。そしてそのアイデアの元となったのが訳者あとがきによると、ベラスケスの絵画「ラス・メニーナス」だということで驚いた。ちょうど先月の読書会で『ベラスケスの十字の謎』という作品を取り上げたばかりだったので。ここでもまた本のつながりを感じた。