市内ではカワヅザクラとカンヒザクラが咲いている。ソメイヨシノはまだだけど、いつも行く河川敷公園に、この時期ソメイヨシノより早く咲く桜がある。正式な名前がわからないので、娘と「あの早咲きの桜」とか呼んでる。
この「なんらかの桜」は今年も可愛いく咲いていた。
月末には桜祭りがありソメイヨシノが満開に咲き誇る。その頃にはこの桜は散ってしまうので、あまり人目をひかないのだけれど、わたしたちはキミのこと見てるよ。いつもかわいいね。ありがとう。
わりと最近まで間違えて覚えていた名前がある。
カレル・チャペック
ヤヌシュ・コルチャック
マキシミリアノ・コルベ神父
この3人をごっちゃにしていた。
なぜ間違えたのか。チャペックとコルチャックはたぶん音の響きで混同してしまったのだろう。
コルベ神父のことは、昔遠藤周作の『女の一生』で強制収容所で身代わりで亡くなった話を読んで印象に残っていた。そのコルベ神父とコルチャックを混同したのは、コルチャックもまた収容所で亡くなっていることを知ったから。名前も「コル」までは同じだから余計に思い込んでしまった。
思い込みって怖い。チャペックをちゃんと読もうとして著作など調べていて、どうもコルチャックとは違うということはわかったけど、まだコルチャックとコルベ神父は混同していた。その時にきちんと調べていたらもっと早く間違いに気づいたのに、労力を惜しんではいけないな。
チャペック『長い長いお医者さんの話』はずっと積読本のまま。早く読まなくちゃ。
コルチャック『子どものための美しい国』は図書館にあるので、いつか読みたい。
もうひとつ
ディーノ・ブッツァーティとジャンニ・ロダーリも一時期混同していた。まるで違う名前なのに…。
ブッツァーティは先に『七階』『待っていたのは』というとてつもなくいや〜な怖い話を読んでいたので、児童書で見つけた時はびっくりした。それでどうもあのブッツァーティとは違う人だと思い込んだらしく、じゃああの人は誰だ?となってなぜかジャンニ・ロダーリの名が頭に浮かんで、そこからしばらく2人を混同していた。
昨年ブッツァーティのデビュー作が児童書だったことを知り、あらためて著作を調べてやはりあの「七階」は彼だったのかとわかった。
ロダーリは『チポリーノの冒険』の作者でした、ごめんなさい。『チポリーノの冒険』も昨年読んだけど、びっくりするほどおもしろかった。
思い込みはよくない。疑問に思ったら億劫がらずまず調べよう。
『ナイルのほとりの物語』全11巻 長岡良子・著 秋田書店ボニータコミックス 1993〜1998年
全11巻のうちアクナトンに関連した話は2巻、3巻、5〜7巻にある。
2巻 VOL.5「死者の書」
死の世界で目覚めた少年王ツゥトが、生前を思い出す形で話が進む。幼い時にアケト・アトンでアクナトン一家と暮らした輝かしい日々。アクナトンの死でアメン神官たちにかつがれテーベに戻り即位する。アトンは禁忌となり人々の記憶から消された。成長した彼はアトン神を復活させようとしてアメン神団に暗殺される。
彼ーツゥト・アンク・アメンがツタンカーメンであり、アトンという神を巡ってこんなことがあったのを初めて知った。
3巻VOL.9「エクソダス」
エクソダス=旧約聖書の出エジプト記。モーセがヘブライ人を連れてエジプトを脱出するまでの話を、アトン神(太陽神)に絡めて描いている。アトンとアクナトンについてモーセが知る場面で、「死者の書」で少し触れられていた顛末がわかった。多神教のエジプトにとって唯一神アトンを奉じ、愛と平等を説いたアクナトンは異端の王として忌避されアトンは封印された。いずれアメン神の祭司長にと期待されていながらアトンの教えに惹かれるモーセ。後世そのモーセの物語を聞く子どもの中にイエスがいる!ここからキリスト教に通じていくのか?
作者は「モーセの教え“法の下には何人も平等である”はナザレ人イエスに受け継がれ現在に生きています」と書いている。
しかし約束の地カナンが今のパレスチナ周辺だと思うと、なんだか複雑な気持ちになる。
5〜7巻VOL.13「黄金の地平」
ここでようやくアトンとアクナトンの話になる。主人公は「エクソダス」でモーセにアトンの護符を渡す老人アイザック。若き日の彼が友人ホレムヘブとカエムワセトと共に、夜明けの太陽に祈る少年アクナトンと出会う場面が美しい。アイザック自身の出自も交え、『アクナーテン』と同じように、アクナトンの宗教改革が崩れさるさまが描かれて痛ましい。
それまでの名前アメンホテプ(アメンは満足す)を、アトンを唯一の神とするため改名したのが
アクナトン=アクン・アトン=アトン神の栄光
(アク・エン・アトン=アトンを喜ばす者とも)
名前の意味がわかるのは楽しい。
ツタンカーメンが『アクナーテン』ではツタンカーテンだったのは、当時はアテン神を信仰し
ツゥト・アンク・アテンだったから。
『アクナーテン』の解説で吉村作治が「西欧におけるアクナーテン王の人気はすこぶる高い」と書いてあったが、やはりキリスト教に通じるものがあるからなのだろうか。アクナトンが報われたみたいで嬉しい。
アトン神とアクナトンについて初めて知ったのがこの作品だった。思い出深いとても好きな作品。
『アクナーテン』アガサ・クリスティー・著 中村妙子・訳 早川クリスティー文庫 2004年
早川クリスティー文庫の一覧に『アクナーテン』という作品を見つけ驚いた。え?アクナトンのこと?クリスティにこんな作品あったのか!戯曲らしいがどんなものかと思わず買ってしまった。
解説が吉村作治で、それによるとクリスティ自身この作品を気に入っていたという。作品が書かれたのが1937年で、出版されたのが晩年の1973年(1976年死去)。気に入っていたのに出版までずいぶんかかったのだなあ。さらに日本での翻訳が2004年。全然知らなかったので、この機会に読めてよかった。
戯曲なのと、アクナトンについては多少知ってるせいで、わりとすらすら読めた。
純粋で繊細な若き王がひたすら自分の理想を追い求め、その高潔さゆえ民や臣下から離反され、狡猾なアメン神官とのたたかいに敗れ去る。人々の幸せのために愛と平等を説いたのに、その人々に理解されないむなしさ痛ましさ。ネフェルティティとの間に深い愛情があったのはせめてもの救いだった。
登場人物もよく知ってる名前が多いなか、王妃ネフェルティティの姉ネゼムートだけがなじみなかった。ただホルエムヘブとの関係から彼女は長岡良子『ナイルのほとりの物語』でのムテムイアに当たる人物ではないかと見当をつけた。
ホルエムヘブとの間に主従を超えた深い友情と信頼関係があったのも嬉しい。だからこそ何度も何度も忠告し懇願した彼の最後の選択は、両者にとって辛いものだったろう。
アイがアテン神官なのは意外だったが、彼も王母ティイもアメン神官ともう少し上手くやるように忠告するのだが、アクナーテンは聞き入れない。せめてこの3人の忠告通り、改革をもう少し緩やかにしていればよかったのに、でも無理だったんだなあ。
この作品のアクナーテンは詩を詠む。その詩がアトン讃歌と呼ばれるものではないかと思う。またネフェルティティの胸像も彼が作ったものになっている。彼は政治家というより宗教家であり芸術家であった。なんとなく俗世では生きにくい人だったのかと、思いを馳せた。
『エジプト人シヌへ』に興味を持ったのは、アクナトンやツタンカーメン時代のことらしいということから。
わたしがアクナトンについて知ったのは、長岡良子の漫画『ナイルのほとりの物語』だった。予習のつもりでまた読もうと引っ張り出してきた。
エジプト時代といえば山岸凉子も書いていたなと思い出し、『ハトシェプスト』もついでに出してきた。『ツタンカーメン』もあったはずだけど、どうも処分したらしい。そして『ハトシェプスト』をぱらぱら読んで驚いた。登場人物に「王宮の医師シヌへ」と名乗る男がいたのだ。一瞬この男があのシヌへか?と思ったけど、時代が違うので同じ名前というだけだった。
そして最近クリスティー文庫のラインナップを見ていて、『アクナーテン』という作品を見つけて驚いた。こんな作品あったの?どうも戯曲らしい。解説が吉村作治。迷った末購入。クリスティの描くアクナトン。どんなふうに描かれているのだろう。わくわくする。
なかなか肝心の『エジプト人シヌへ』までたどりつけないけど、思いがけないつながりが見つかるのは大好きなので、この巡り合わせを楽しんでいこう。
この作品はさまざな要素がぎっしり詰まっていてそれぞれ印象的なのだが、やはり「ことば」についての部分が、前作と呼応していて興味深かった。
『女性のことばとその意味』の製本を手伝った時、ガレスがペギーたちに感謝し、ペギーもエズメに感謝を伝えたかった。
ーことばをありがとう このことばたちを集めて、理解して、敬意を払ってくれてー
ここを読んだとき「小さなことばたちの辞書」にこんな箇所があったのを思い出した。
ーことばを与えてくれた人々が、それぞれのことばに、わたしのカードに書ける以上の願いを託しているとは夢にも思わなかったー
ことばを集めたエズメと、そのことばを使う立場のペギー。2つの作品がここでつながっている。
またギリシャ語の勉強に悩むペギーに、図書館司書のミス・ガーネルがホメロスの『オデュッセイア』の翻訳についてペギーに語る場面がある。これが非常に興味深い。
ある場面で女性たちが殺される、その女性たちはどのように翻訳されているかというと、ある訳では「乙女」、ある訳では「侍女」、またある訳では「娼婦」だという。
どう呼ばれるかがなぜ大事なのか?と尋ねるペギーにミス・ガーネルは答える。
ーわたしたち女性を説明するために使われることばは、わたしたちの社会における価値を定義する。そして社会にどう貢献できるかを決める。また、わたしたちについてどんな感情をもつべきか、どう判断を下すべきかを人々に指示するものでもあるー
この部分、前作でも似たような文言があった。
ーわたしたちを定義するために使われることばは、わたしたちが他者との関係で果たす役割を説明していることがほとんどだー
では、この女性たちはどう呼ばれるのが正しいのか?と再び問うペギーに彼女は答える。
ーこの女たちは奴隷だった。古代ギリシャではあまりにも当たり前の境遇だったから、物語の語り手は説明する必要がなかった。でも現代のイングランドで、この物語を正しく理解するには、この女性たちの身分を明確にすることばを使う必要があるー
ここでペギーはボンドメイド(奴隷娘)と言う。あのエズメの辞書に載っていたことば。うわー、ここであの作品のキーワードが出てくるなんて、と興奮した。
『ジェリコの製本職人』 ピップ・ウィリアムズ・著 最所篤子・訳 小学館 2024年
同じ作者の『小さなことばたちの辞書』の姉妹編。前作とのつながりを感じながら楽しく読めた。
オックスフォード大学出版局で双子の妹モードと働くペギー。亡くなった母も同じ職人だった。ペギーの仕事は印刷された紙を折り、かがること。仕事中に印刷された断片を読み、製本に失敗した紙をこっそり持ち帰り、読書や勉学への渇望を募らせていく。どんなに望んでも労働者の彼女が大学で学ぶことはできない。だが第一次世界大戦がはじまり、奉仕活動で女子学生のグウェンと知り合ったことで、彼女の運命も変わっていく。
階級差別、経済的困難などを乗り越え、製本所の主任やグウェンやグウェンの通うサマーヴィル・カレッジの図書館司書など、周囲の人々の後押しでペギーが大学への道を切り開いていく姿には胸が熱くなる。
ペギーは植字工ガレスに頼まれてあの『女性のことばとその意味』の製本を手伝うことになる。あの辞書がこういうふうに作られていったのか、とわくわくした。ガレスが「後でもっと刷るために版はとってある」と言った時、『小さなことばたちの辞書』でも、彼が重版するつもりだった、と残っていた組版を見せてもらう場面が思い出された。あそこでは泣いたんだ。なぜ一冊だけ製本するのか、それは「特別なこの世で一冊だけの本」でなければならないから。そこに彼のエズメへの愛情を感じる。でも一冊だけだと思っていたあの本が、後にペギーたちによって数冊印刷されていたことを知って、わずか一冊だけで絶版になってしまったと思っていたのでとても嬉しい。
ペギーたちの母親が女優ティルダと友人で、母の死後もずっと交流が続いている。
前作で後半からあまり出番のなくなった彼女のことが気がかりだったけど、この作品で知ることができた。サフラジェットのWSPUを脱退してVAD(篤志救護隊)としてフランスの病院に派遣されている。これは『サフラジェットの病院』に通じる話で、こんなところにも関連があった!と嬉しくなった。
朝からずっと考えてきた。結論は出ないけれど書いてみる。
朝刊にノンフィクション作家の野村路子さんの「アウシュビッツとガザ」という文章が載っていた。内容は昨年11月に朝日新聞に載っていた記事と同じだったが(友人がコピーしてくれた)どうしても気になる部分があった。
野村さんはテレジン収容所で子どもたちが描き残した絵を紹介する「テレジン収容所の幼い画家たち展」を開く活動を長く続けている。
野村さんが活動を通じて交流しているアウシュビッツからの生還者のユダヤ人女性がいる。今回のガザ攻撃についての彼女とのやり取りで、イスラエルの行為の正当性を主張する彼女にショックを受けたという。「誰よりも戦争の恐ろしさ、子どもの命を奪う理不尽さを知る人なのに…」
そして
「ユダヤ人が不条理に差別され、命を奪われたホロコーストの重みは知っている。
生存者に、あのイスラエルという国が与えられた事実も。」
“生存者にイスラエルという国が与えられた”
この言葉に悩まされている。
与えられた?誰から?
現在イスラエルのある地域はそれまで誰のものだったのか?
その正確な経緯をわたしは知らない。
ただそれまではイギリスが統治していて、そのイギリスがユダヤ側とアラブ側両方に、それぞれの国家の独立を約束した(バルフォア宣言とフセイン・マクマホン協定)所謂二枚舌外交が紛争の元になったらしいことは何となくわかる。(サイクス・ピコ協定も含めて3枚舌外交とも)
昔オーストラリア人の友人が、中東問題の原因はイギリスにある、と言ってたけど、本当にそうだ。
イスラエルの建国は国連が承認した。ではアラブ国家はどうなったのか。ここらへんのことはもっと勉強しないと正確にはわからない。結局は植民地支配する宗主国の利益思惑があったのではないかと思うのだが。
野村さんの文章に戻ると、この文章からだと、ホロコーストの生存者に、お詫びとしてイスラエルという国が与えられたように読める。
岡真理さんの『ガザとは何か』で、ヨーロッパ各国が自分たちのホロコーストの罪をパレスチナに贖わせている、とあったが、たしかに言葉は悪いがパレスチナあげるからこれで許してね、と言ってるみたいだ。
野村さんの言葉尻を捉えて文句言ってるみたいで気がひけるけれど、わたしにもちょっと雑な認識(イスラエルはホロコーストの犠牲の上にユダヤ人がようやく得た安息の地)が、ずっとあって、最近ようやくそれに疑問を持ちはじめたのでこの言葉にひっかかったのだ。
子どもの頃から何回か中東戦争が起きた時、わたしはいつもイスラエルの方が正義のような気でいた。『アンネの日記』をはじめユダヤ人のホロコーストの情報に触れていたせいだろう。気の毒なユダヤ人、それをいじめるのは悪いやつ。PLOはテロ集団だと思っていた。パレスチナ難民のことは報道されていたはずなのに、わたしには見えていなかった。
わたしのこのもやもやを解決するには、腰を据えてしっかり勉強するしかないのだ。
『バレエ・シューズ』ノエル・ストレトフィールド・著 中村妙子・訳 教文館 2018年
『バレエシューズ』ノエル・ストレトフィールド・著 朽木 祥・著 福音館 2019年
『ふたりのスケーター』が抄訳かもと思ったのは、同じ作者の『バレエシューズ』が抄訳と完訳で出ていたから。
教文館版は同じ訳者で1979年にすぐ書房から全訳が出ていたらしいのだが、「今回の新訳では分量はほぼ半分だけれど、内容についての理解はこちらの方が濃い」と訳者あとがきにある。
3人の孤児たちの成長とそれを見守る大人たち、学校生活だけでなく働いて賃金を得ることもきちんと描かれているのがおもしろい。何より絵と装丁が素敵で大好きな作品。正直これ以上の訳本はないだろうと思っていた。
福音館から全訳が出ていたので(こちらの装丁も素敵)あまり期待せず一応読んでみた。そこで初めてどこが省略されているのかが分かった。なるほど、確かにここは訳されなくても全体の話に問題はないなと思った。
本来なら翻訳は完訳であるのが望ましいと思うのだが、この作品についてはあまりにも教文館版が完成度が高いので、抄訳もありだと納得させられてしまった。
では福音館版が冗長かと言えばそうではない。これはこれで詳しい描写が作品の理解を深めている。抄訳は長編映画で完訳は連続ドラマみたい。それぞれの良さがあり、どちらもいい。
福音館版で訳者の朽木祥さんを初めて知ったのが、大きな収穫だった。朽木さんの作品は今とても楽しみに読んでいる。
『ふたりのスケーター』ノエル・ストレトフィールド・著 中村妙子・訳 教文館 2017年
第2次世界大戦前の英国。健康回復のためフィギュアスケートをはじめたハリエットと、父親が有名なスケーターで3歳から英才教育を受けていたララ。対照的な2人の出会いと友情、成長が描かれる。
生い立ちも家庭環境もまるで違うふたり。
裕福ではないが、両親兄弟に囲まれて愛情たっぷりに育ったハリエット。真面目に練習に取り組み上達してくると、スケーターを目指したいと思うようになる。
両親を事故で亡くし叔母に引き取られたララ。叔母は兄の忘れ形見のララを、兄と同じスケーターにすることに情熱を傾けている。そのためララの毎日はスケートの上達が目標の全てで、細かくスケジュールを組まれている。これは一種の虐待だと思うのだけれど、誰も正面きって叔母に意見できない。ララもそれに疑問を持っていない。それは周囲の期待と称賛を浴びるのが気持ちよいからなのだが、ちょっと天狗になり練習を怠けがちになる。
ハリエットと関わることで、周囲の大人も少しずつララの環境を変えようとする。叔母に遠慮してなかなかスムーズに進まないのがもどかしいが、叔母も完全な悪人ではないのでそれは仕方ない。ララが自分が本当にやりたい事に気づき、そのための努力を続けることを決心できて本当によかった。
主人公のふたりだけでなく、家族と周囲の人々も丁寧に描かれていて、子どもを幸せにするために大人たちが働きかける姿にほっとする。ゆったりした古き良き時代の雰囲気も心地よい。今ならもっと問題になるのではという部分もあるし、そこが物足りないと感じながらも、だからこそ愛おしいと思う。現実の酷さに疲れている今こういう作品に出会えてよかった。
もしかしたら『バレエシューズ』と同じように、この作品も抄訳なのかもしれないとちょっと思った。